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代書屋風情が読む作家と作品①-生涯通して葛藤した夏目漱石

 夏目漱石という人は、人生最後まで葛藤し過ごしていたと思う。もともと、生まれてすぐに養子に出されている。さらに、復籍したものの実親からの愛情は薄かった。当時としては、親が高齢になってから生まれた子供だったからだ。そのあたりの感覚は、今と違う。恥かきっ子というやつだ。彼の代表作のひとつである「坊ちゃん」の出だしではないが。生まれた時から愛情面では損をしている。

さらに、モノ心つくころになると様々な葛藤の中にいた。

まずは、人生の指針である。彼は最初の頃は、文学に邁進するつもりは毛頭なかったようだ。なんと、彼が最初目指したのは建築家だ。そこから、紆余曲折を経る。ただ、そういった紆余曲折の知識は、無駄になっていない。建築家というと、デザインが必須だが。彼の場合は、その部分のたたずまいを、草枕の主人公の画家に語らせている。そんな彼だが、文学をやろうと思った。とは言っても、それほど深く小説家という地位をめざしていわけではなさそうだ。ともかく、英文学をやり大学の先生になり学者としての地位の栄達だろう。さらに言えば、この背景には安定した経済生活ということがある。実は、彼はかなりお金に苦労していた。自身の道草という小説でも描写しているが、自分を子供の頃に育てた養父が一応、栄達した彼にせびりにきていたのだ。もっといえば、彼がロンドンに留学中のころには、ギリギリで生活費をまかなっていたし、帰国後はこれだ。また、当時では、こういう秀才には結婚相手の親なども援助するものだが、妻の鏡子の父親は当初こそ書記官長をつとめ羽振りも良かったが、途中で失職し余裕も全くなくなった。むしろ、漱石の側がカバーする立場だったろう。

そんな中でだが、彼にはロンドン留学中に得た一筋の光があった。これまで、あいまいだった人生の目標が鮮明になったのだ。これを考えさせてくれたのは、親友の正岡子規だ。子規は留学中の彼に手紙で、どういった人生を送りたいのだ、とストレートに聞いてきたのだ。漱石は改めて、異国の地で己をみつめた。結果、書いた返事が「文学的生活を送りたい」というものであった。ともかく、文章で生計をたてようということだ。

だが、現実は厳しい。帰国後、大学教師をするのを余儀なくされた。その中では、藤村操という教え子が自殺までしており、いろいろとあったろう。大学は大学で前任者の小泉八雲先生の教え方に心酔する学生たちからのブーイングがあったかもしれない。

彼の人生を見ると、何か光があっても、それを遮る雲が必ず現れてくる。そのせいか、彼の書く小説の主人公は、最後までラッキーとは言えない。坊ちゃんのような快活な主人公だって、意地を通すなどドタバタはいいが、最後は結局、暴力事件を起こし職場を去っている、という見方もできる。被害者の赤シャツなどはクビにならなかったろうから、あからさまに言えば、彼と相棒の山嵐は負けたのだ。さらに言えば、田舎の高校から出て華やかな都会生活を送っていた三四郎はフラれるし。門の宗助は、一難去ったものの今後も同様のことが起こりそうな予感を感じている。それからの代助は最後は頼っていた実家に見放されて、街を彷徨う。

何か、良いことがあっても、最後には文字通りに暗雲漂わせ哀愁がある。そんな主人公に自己を投影しているのかもしれない。

もっとも、そんな彼もようやく朝日新聞の専属小説家となり、生活は一応安定。このあたりで、今やこれからと思ったら、胃潰瘍の発覚と進行である。最後に暗雲が立ち込める。

結局、彼の人生はなんだったのだろうか。もちろん、客観的には後世に残る文学作品を多く残してくれた。まごうことなく偉人だし文豪だろう。だが、なにか彼の生涯は栄光の一方で暗雲も立ち込めている中を必死で生きていた感じだ。それが、彼の作品の主人公の生き方に独特な影を落としているのである。

葛藤する天才の夏目漱石であった。

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