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学校創っちゃった物語⑩‐識見高い官僚が立ち上げた東京学園高校は明治の頃の入学時期改変の最先端であった。

 新型ウィルスの感染拡大から、教育現場も混乱している。様々な議論が出る中で、最近取り沙汰されていることのひとつが、9月入学制度の問題だ。東京都の小池知事も「明治の頃は9月入学だった」と語っていた。この知事の言葉はまさに正しく、当時の官立学校は9月入学、7月卒業が慣例であったのだ。

が、そんな中で4月入学、3月卒業を定めた夜間学校が明治22年に開校した。東京商業学校である。校長は高橋健三。東大出の官僚でスタートしたばかりの官報を発行する部署の責任者すなわち局長を務めていた。この人物、かなりの高潔な人物と第三者からも評されており、またその見識は多くの有意な人物を輩出した明治時代においても、群を抜いて高かった。朝日新聞創設にかかわった村山龍平とも交流があり、後に同社に招聘されてもいる。

そんな高橋健三が、英国での商業教育制度に感銘を受けて設立したのが同校だ。主に商家の子弟や店員を対象にわかりやすい商業教育を行うのを目的としていた。なので、仕事が終わった後に通いやすいようにと夜学三年にしたのだ。夜間授業ということで、当時の東大や著名な学校の教師が副業として講義しに来たので、かなり授業の質は高かったという。あくまで、中等教育を施すのが目的の学校だったのだが、当時から評価はかなり高かった。

ちなみに、明治に起こった学校というのは、なくなったところも多いが、存続して今の大学になったところも多い。東京商業が設置された近くには専修学校とか英吉利法律学校とか多くの後の大学たちが専門学校として存在していた。東京商業も、その教授陣の顔ぶれや歴史から、そうなりそうだったが。そうはならなかった。かえすがえすも、残念な気がするが。これは、もともと建学の精神が現場の商業教育を目指していたからだろう。決して、同校が遅れをとったわけではないだろう。しかし、繰り返すが残念だ。

こういう高い教育体制の割には入りやすい敷居の低さがあったのだろう。同校からは多くの著名人が輩出されている。島村抱月先生もそうだが。やはり、星一氏の存在も大きい。後に、星薬科大学のもとになる学校を築いた彼だが、かなりの人物だ。この星に特に目をかけていたのが創立者の高橋健三である。高橋は学者や官僚としてだけではなく、教育者としてもすぐれた目を持っていたことも理解できる。

その後に紆余曲折を経て、目黒に移転し東京学園高校となり現在に至り、ずんの飯尾氏なども卒業させた。だが、どうだろうか。9月入学の流れの中で、いちはやく4月入学を打ち出した同校は、9月入学の議論が巻き起こるとともに閉校となってしまった。これも何か残念だ。

だが、悲観することなかれ。この学校の経営権をなんと、あの河合塾が買い取った。ドルトン東京学園中等部・高等部として生まれ変わり調布の地で再スタートを切ったのだ。100年前の米国で提唱された教育メソッドである『ドルトンプラン』を柱に展開する。独特の考えと、河合塾のノウハウが融合し、次代を担う人材を輩出しそうだ。

9月入学全盛の中で敢えて4月入学を実施し、さらに独自の高い教育体制を整えた東京商業さらに東京学園高校。4月入学普通の中で9月入学議論が高まる中で、やはり独自の高い教育体制で新時代に提案する。

良い因果が巡っている学校のようだ。

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