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ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)に戻って 〜 1983年10月5日

1. 「48イスラエル」, 「47イギリス委任統治領パレスチナ」

イスラエル国(1948年, 従前 約30年間「イギリス委任統治領パレスチナ」だったその域内に「建国」)の領内なのでその意味では単純に「イスラエル」と書いてもいいのだが, 1967年6月のイスラエルによる軍事侵攻以降 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に逆らって既にこれまで半世紀以上の長きにわたりイスラエルが占領している土地(東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区, しかもイスラエルはその占領地内に国際法違反のイスラエル・ユダヤ人入植地を数多建設)や軍事封鎖している土地(ガザ地区)などを踏まえると, 領土や占領の観点においてイスラエルという国の在り方は些か錯綜している。そこで, 16世紀以降オスマン帝国の支配下にあり, 1918年になると同帝国に第一次世界大戦において戦勝したイギリス(大英帝国!)が占領, 1920年から1948年にかけては「イギリス委任統治領パレスチナ」であった地域,

(1947年のパレスチナ, 「イギリス委任統治領パレスチナ」)

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このうち, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区およびガザ地区を除く, つまりは 1948年の「建国」以来 1967年6月以前までイスラエルが統治していた範囲を指して, ここでは便宜的に「48イスラエル」と呼ぶことにする。

なお, イスラエル「建国」に伴って域内の全パレスチナ人が難民化したわけではないので(当時 7-80万人のパレスチナ人が自らの家や土地を失い, 故郷を追われた, アラビア語で「大災厄」を意味する「ナクバ」については次章), 「48イスラエル」域内にも同域内のその全域においては少数派ながら, アラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)が居住している。また, 例えば, 筆者が 1983年10月5日にハイファから日帰りの旅をしたナザレは, 「48イスラエル」にありながら今も住民の多数派はアラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)である。

2. パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」

以下, パレスチナ/イスラエルの旅を始めた日の note(本 note 第5章のリンク *2)の第1章 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇 「ナクバ」 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年「建国」)支援のもとで に書いたテキストを転載(バルフォア宣言についての補足のみ追加)。

ナクバとは、1948年5月14日のイスラエル「建国」に伴い、その数ヶ月前から始まっていたシオニストの民兵によるパレスチナ人に対する民族浄化(1948年4月9日、イスラエル「建国」前のパレスチナのディール・ヤシン村でユダヤ人のシオニスト民兵たちが女性や子どもを含むパレスチナ人村民107人以上 [犠牲者数は当初より254人とされてきたが, 近年の研究で107-120人と推定, 前者が流布した背景には加害者側が虐殺を「成果」として宣伝しパレスチナ人に恐怖感を植え付けようとしたという思惑があったことが指摘されている] を虐殺した事件をはじめ、数々の虐殺行為があった:因みにディール・ヤシン村虐殺の首謀者, そのリーダーであったメナヘム・ベギンは後にイスラエルの首相になっている)とイスラエル・アラブ諸国間の戦争により、翌1949年にかけて 500以上のパレスチナ人の村が破壊され70~80万人(75~90万人とする説もあり100万人近いとする見方もある)のパレスチナ人が、故郷の土地と家を失って難民となったことを言い表わす言葉である。
ナクバはアラビア語であり(النكبة‎, al-Nakbah, Nakba)、直訳すれば、大破局、大災厄、大惨事、破滅的な状況、極めて大きな不幸といった意味合いになる。先に書いたイスラエル「建国」前後の期間に起きたことを指すのが一般的だが、一方でその後の70年余にわたり今現在も続くパレスチナ人の苦難をも含めて「ナクバ」と呼ぶ、すなわち「今もナクバが続いている」という文脈で使われる、広義の言い方もある。
また、ここでいうパレスチナ人とは、紀元前からの歴史があり16世紀以降その地を支配していたオスマン帝国が第一次世界大戦の敗戦国となって以降は戦勝国となった大英帝国、イギリスが 1918年から占領を開始、1920年からは「イギリス委任統治領パレスチナ」となっていた土地に、当時人口の上でも土地所有率の上でも圧倒的多数派として居住していたアラブ系住民を指す。
*1 1947年のパレスチナ(当時はイギリス委任統治領パレスチナ):本章のテキストはこの地図の下にさらに続く。 

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パレスチナ(英語 Palestine, アラビア語では فلسطين ‎[Filastīn], ヘブライ語では פלשתינה ‎[Palestina])という言葉は紀元前からあった呼称だが、16世紀以降その地はオスマン帝国の支配下、そして同国が第一次世界大戦で敗戦国となった後は1918年からイギリスが占領、1920年から1948年までは Mandatory Palestine (British Mandate for Palestine) つまり「イギリス委任統治領パレスチナ」となっていた。
1918年にイギリスが行なったパレスチナにおける人口調査によれば アラブ人(ここで言うパレスチナ人)の人口は 700,000人、ユダヤ人のそれは 56,000人と前者の 1/12 以下だったが、その後、ヨーロッパにおける長年のユダヤ人差別の歴史を背景に(直接的きっかけは1894年のフランスにおけるドレフュス事件)前世紀 19世紀末から始まっていた シオニズムによるユダヤ人のパレスチナへの移民の動き [シオニズムの「シオン」は 旧約聖書に出てくるエルサレム地方の呼び名] が急速に拡大した結果(その原因の一つは1917年のイギリスによるシオニズム支持表明と言える「バルフォア宣言」[イギリスの三枚舌外交:1915年10月のフサイン=マクマホン協定で中東地域におけるアラブ諸国独立を約束, 1916年5月のフランス・ロシアと秘密裏に結んだサイクス・ピコ協定で同3ヶ国による中東地域の分割支配を目論み, 1917年11月のバルフォア宣言ではイギリスの当時の外務大臣アーサー・バルフォアがイギリス政府によるシオニズム支持を表明] 、

(左の男がアーサー・バルフォア)

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(右がバルフォア宣言, ロスチャイルド卿宛ての書簡)

そして更に加速度的に拡大つまりユダヤ人のパレスチナへの移民を急増させたのは ヨーロッパを席巻した ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害・弾圧・ホロコースト であった)、1947年11月29日の「国連パレスチナ分割」案決議の際の報告書によれば、その時点でのパレスチナにおける人口は、アラブ人とその他(その他とはアルメニア人やギリシャ人などの少数を指し、したがってこの大半はアラブ人 = パレスチナ人を意味する)が 1,237,000人と全体の 67%を占め依然として多数派であったものの、一方でユダヤ人は 608,000人にまでその人口を増やしていた(それでもイスラエル「建国」当時のパレスチナにおけるユダヤ人の人口は全体の 1/3 程度に留まっていたことになるわけだが)。
因みに上記の「国連パレスチナ分割」案は、アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教, うち後二者は仏教とともに世界三大宗教に数えられる)の聖地があるエルサレム市については国連を施政権者として信託統治とするとしたうえで、その時点でなお人口でアラブ人(現在言うところのパレスチナ人)の半分もしくは半分に満たず、また土地所有率に関しては全体の 8%にも届いていなかった(上記の通りもともと人口のうえで絶対的な少数派だったユダヤ人が30年ほどの短期の間の大規模な移民によって人口を増やしたのだからこれは当然の数字ではあった)ユダヤ人の側の新国家(後のイスラエル)にパレスチナの土地の 56%を与え、多数派であったアラブ人(同、パレスチナ人)側のものになるとして予定された国には 43%の土地しか与えないという、極めて不当・不公平・不公正なものだった。
結局、イスラエル「建国」前から始まっていたシオニストのユダヤ人によるパレスチナ人に対する民族浄化キャンペーン(虐殺など)、そしてイスラエル「建国」とイスラエル・アラブ諸国間の戦争結果(パレスチナ人にとっては「ナクバ」)、1948年「建国」当時のパレスチナにおける人口において全体の 1/3 ほどだったユダヤ人シオニストたちの新興国家「イスラエル」は、パレスチナ全域のほぼ 8割の土地を獲得することになった。
そしてその後、イスラエルは残ったパレスチナ人の土地、すなわち以降はヨルダンが占領・統治・併合していた東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区(ただしヨルダンによる占領, 併合は国際社会の殆どが承認していなかった)およびエジプトが占領し統治していたガザ地区(エジプトによるこの占領・統治も国際社会の殆どが承認していなかった)の全てを 1967年の第三次中東戦争により占領することとなり、「歴史的パレスチナ」全土がイスラエルによって支配されることになったわけである。
なお, 1967年6月以降のこのイスラエルによる占領(上記の他にシリアのゴラン高原の一部, およびエジプトのシナイ半島; 後者のみ後に返還)も当然ながら国際社会は承認していない。そもそも1967年11月22日採択の国連安保理決議242号を含む複数の安保理決議が、1967年占領地からのイスラエルの撤退を要求し続けている。
ともあれ、上記のイスラエル「建国」当時のアラブ系住民 = パレスチナ人の人口などを踏まえ、あらためてイスラエル「建国」が引き起こしたパレスチナ人にとっての大惨事・大災厄 = ナクバによってどれだけの人数のパレスチナ人が自らの故郷・土地・家を失ったかを見れば、その悲惨さがなおいっそう伝わってくるであろう。
以下の *2 は 先に掲載した(1947年当時のパレスチナ)地図 *1 を補足するものとして、その後の「パレスチナにおけるイスラエル側の占領地・入植地の拡大, その変遷」を表わす地図、*3イスラエルが「ナクバ」の歴史的事実を隠蔽してきたことに関する Haaretz (イスラエルのメディア) の記事、さらに *4, *5, *6, *7 も本章に関連する同じく Haaretz の記事(*7 に関してはイスラエル「建国」後のイスラエル領内のアラブ人 = パレスチナ人たちに対する弾圧とその隠蔽に関する 2021年1月9日付の記事)。*8 以降は本章に関連する筆者の過去の note へのリンク。
また, 本章の見出し「2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇 『ナクバ』 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年『建国』)支援のもとで」の後半部すなわち副題的に添えた「アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年『建国』)支援のもとで」に関しては、以下 *8-2), *9, *10, *11 などに詳述。
*2 パレスチナにおけるイスラエル側の占領地・入植地の拡大, その変遷

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右端の "Present" は2年程前, この間にイスラエル・ユダヤ人による国際法違反の占領地(西岸地区)内・違法入植地はさらに増えている。
*3 「ナクバ」を埋める: イスラエルはいかにして体系的に・組織ぐるみで・手際よく、1948年のアラブ人(パレスチナ人)追放に関する証拠を隠してきたのか
Haaretz, 2019年7月5日付の記事
*4 Haaretz, 2020年10月4日付の記事
記事のヘッド(見出し)にある Ben-Gurion (David Ben-Gurion) とは、1948年に パレスチナの地(本章のテキスト内でも言及した通り、パレスチナという名称は遥か昔の紀元前からあったが、この当時、直前 1920年から1948年までの正式名称は「委任統治領パレスチナ」, Mandatory Palestine もしくは「イギリス委任統治領パレスチナ」, British Mandate for Palestine で、その直前に関しては 16世紀以降の長い支配が続いた「オスマン帝国」の統治下にあった地域)の上に「建国」された「イスラエル」という名の新興国家の「建国の父」であり、初代イスラエル首相であった人のこと。
これも本章のテキスト内でも触れたが、当時の「パレスチナ」地域におけるユダヤ人の人口は、それ以前の数十年間にわたるシオニズムによる移民の(ナチス・ドイツによるホロコーストの影響をも受けた)結果としての急激な人口増加の経緯があっても、依然として同地域に住むアラブ人 = 今いうところのパレスチナ人 = の人口の半分ほどに留まり、そうした歴史的経緯があったため土地所有率に至っては実に 8% にも届かなかったにもかかわらず、イスラエル「建国」前年の 1947年11月29日に当時まだ欧米諸国が支配的だった設立間もない国際連合の総会で採択された「国連パレスチナ分割」案は、その案において国連の信託統治下とするとしていたエルサレム市を除いて「パレスチナ」全域の土地の 56% をユダヤ人、つまりその案が新たに建設されるものと内定していた「イスラエル」という名の「新興国家」に与えるという、極めて不当・不公平・不公正な内容のものだった。
そして、その「イスラエル」という名の「新興国家」は、1948年5月14日の一方的な「建国宣言」(一方の当事者であるアラブ系、現在いうところのパレスチナ人たちの意思を無視したわけだから一方的、イスラエルはこれを「独立宣言」と呼ぶが、上にも書いたように、それ以前にそこにあったのはオスマン帝国の支配が終わった後のイギリス委任統治領パレスチナ = その人口の圧倒的多数はアラブ系、いま言うところのパレスチナ人 = であって、その地において当時「イスラエル」という名の国やあるいは名前は別としてもユダヤ人の国がイギリスの植民地下にあったというような事実は全く、文字通り全く無い)と第一次中東戦争の結果によって、パレスチナ地域において、前年1947年採択の「国連パレスチナ分割」案における不当・不公正・不公平な内容のものよりも 更に広い土地を得ることになった。
記事のヘッド(見出し): Even Ben-Gurion Thought ‘Most Jews Are Thieves’
本文の冒頭は 〜 The quote in the headline wasn’t uttered by an antisemitic leader, a Jew hater or a neo-Nazi. The words are those of the founder of the State of Israel (David Ben-Gurion), two months after it was founded (on May 14, 1948) ... ( ) は筆者が加筆(May 14, 1948 は "it was founded" の日として、上記のイスラエルの一方的な「建国宣言」の日を付した)。
*5 Haaretz, 2020年10月3日付の記事
*6 Haaretz, 2020年10月5日付の記事
*7 イスラエルが、イスラエル「建国」に伴って難民となって故郷を去る他なかったパレスチナ人たちだけでなく、イスラエル領内に残ったパレスチナ人たちに対しても、どれだけ酷い仕打ちをしたのかについての記事
記事のヘッドを丁寧に訳すならば、「イスラエルはその最初の数十年間において、いかにしてアラブ人(ここではイスラエル領内に住むアラブ人、彼らも当然ながら 1967年以降の被占領地に住むアラブ人やその他 イスラエル「建国」に伴いパレスチナの外の「世界」に離散した元パレスチナの住民であったアラブ人と同じく「パレスチナ人」ということになる)を肉体的・精神的にひどく苦しめ続けたのか 〜 そして いかにしてその事実を隠したのか」。
Haaretz, 2021年1月9日付の記事
*8 上掲テキストは、本 note 筆者の以下・以前の note 2点 に掲載した同趣旨の章のテキストに、より正確を期すため、イギリスの三枚舌外交に関する記述、また1948年イスラエル「建国」に伴う第一次中東戦争終結から1967年のイスラエルによる侵攻・第三次中東戦争までの間のヨルダンによる東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区の占領・併合と同期間のエジプトによるガザ地区の占領・統治も国際社会の殆どから承認されていなかった旨の記述部分などの加筆・編集をして、本 note 本章に掲載したもの。
1) イスラエルの高校生60人が兵役を拒否し、1948年イスラエル「建国」に伴うナクバ(7, 80万人のパレスチナ人が故郷を失う)に言及
2) 終わらないパレスチナ人の悲劇 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル支援のもとで
*9 アメリカのイスラエル愛 〜 バイデン政権になろうが変わらぬその愚かさ
*10 アメリカ合州国のお気の毒なまでに「一途な」イスラエル「愛」 〜 その度し難い非合理
*11 アメリカが加担し続けるイスラエルのパレスチナ人弾圧を止めさせようとして イスラエルに殺されたアメリカ人女性 Rachel Corrie
では 長い前説を終えて, 1983年9月28日からのパレスチナ/イスラエルの旅へ。

と書いて 続けたのは, 以下 note の第2章 パレスチナ, 東エルサレム 〜 1983年9月29日(写真 7枚), 第3章 パレスチナ/イスラエル 〜 東エルサレム滞在, 1983年9月28・29日(旅日記より), この note の最後は "Border Ctrl." and "Dabke System"♫ 〜 Palestinian Jordanian electronic music group, 47Soul

本 note 次章は, イスラエルの諜報機関モサドに暗殺されたパレスチナ人作家ガッサン・カナファーニーについて。 

3. 『ハイファに戻って』 を書いたのは, イスラエルの諜報機関に暗殺されたパレスチナ人作家 ガッサン・カナファーニー

『ハイファに戻って』『太陽の男たち』などで知られるパレスチナ人作家で且つ PFLPスポークスマンだった 故 ガッサン・カナファーニー 。当時, 筆者が日本の雑誌などで目にする彼の著作『ハイファに戻って』は, 「ハイファに還って」と表記されているケースがあり, 筆者はその頃は後者の方で覚えていた。

ガッサーン・カナファーニー(1936年4月9日 イギリス委任統治下のパレスチナ生まれ, 1972年7月8日 レバノンの首都ベイルートで自身の姪とともにイスラエルの諜報機関モサドにより暗殺される) 〜 以下は, 彼の死去49周年に際しての ガッサーン・カナファーニー に関するインスタグラム投稿で, 一つ目は動画と下記テキスト(ユダヤ系アメリカ人のイスラエルの占領やアパルトヘイト政策に反対する団体 Jewish Voice for Peace によるもの), 二つ目は写真4枚と下記テキスト(主としてパレスチナ・ガザ地区に住むパレスチナ人によるライター・ジャーナリストの団体 We Are Not Numbers によるもの)。

Jewish Voice for Peace (2021年7月8日, 現地時間)

This 1970 interview reminds us of today’s Palestinians asserting their truths in Western media, even when journalists try to twist their words into false narratives of a “both-sides” “conflict” that Palestinians can “solve” by surrendering their struggle for liberation.
Ghassan Kanafani, a Palestinian resistance writer and revolutionary, was murdered on this day in 1972 by Mossad, Israel’s national intelligence agency. But his spirit clearly lives on in the Palestinian resistance writers, artists, and scholars of today. You can kill a revolutionary, but you can’t kill a revolution.
“To us, to liberate our country, to have dignity, to have respect, to have our mere human rights, is something as essential as life itself.” - Ghassan Kanafani
Interview with Richard Carleton in Beirut in 1970

(以下, スワイプして 2つの連続した動画)

We Are Not Numbers (2021年7月8日, 現地時間)

Writing is a way of resistance, and the #Palestinian people are in huge need of resistance against the occupier, especially that they are trying to steal the culture. Palestinian resistance literature covers fiction, film, theater, poetry, visual art and music, but does not just depict the numerous types of political resistance throughout history. It was first found in Palestine by the Palestinian writer, Ghassan Kanafani.
Ghassan Kanafani was born on 9 April 1936, Acre, Palestine. In Jaffa, he enrolled at the Frères School. He and his family were forced to flee Jaffa when it was conquered by Zionist forces in 1948, and they took refuge in Lebanon. The family subsequently moved to Syria and lived in Damascus. His life in exile was hard, he worked for a printing press, distributed newspapers, and worked in restaurants, yet his hard-living circumstances never stopped him from continuing his learning journey until he got a job as an art teacher in UNRWA schools in Damascus. After obtaining his secondary school certificate, Kanafani joined his sister in Kuwait in 1956 where he worked as an art and athletics teacher. He also wrote for the weekly magazine; al-Fajr, and in 1957, he published his first story, “A New Sun.”
Kanafani’s writings were translated into more than sixty languages, and many of his novels were turned into movies. He also won international prizes such as his first novel Men in the Sun which was adapted into a feature film entitled 'The Deceived' in 1973. The film won the Golden Prize at the Carthage Festival for Arab and African cinema in 1973. Also, he was a talented painter.
Kanafani was assassinated on July 8, 1972, in Beirut. The Israeli Mossad had planted an explosive charge in his automobile, killing him and his niece, Lamis.
One of his most popular sayings: “The Palestinian cause is not a cause for Palestinians only, but a cause for every revolutionary, wherever he is, as a cause of the exploited and oppressed masses in our era.”
#GhassanKanafani #Palestinians #Palestine #Literature #Novels #Assassination #Occuaption #Stop #Oppress #Revolution #Cause #PalestinianCause #Kanafani #Freedom #FreePalestine

本章に関しては, 以下 note 第3章 パレスチナ/イスラエル見聞録 〜 1983年10月3日 の中の 旅日記 3/4 の箇所に書いて掲載したものを, 今日のこの note 用に冒頭のみアレンジし, 上に転載した。 

4. ハイファに戻って あらためて考えた, 1983年10月5日 〜 市庁舎の近くにはなんとヘブライ語と英語とご丁寧にもアラビア語併記で「ハイファ解放 1948」

前日 1983年10月4日, エルサレムをひとまず発って「48イスラエル」の都市ハイファに移動, その日, ハイファの街を歩いていて, 今も強く印象に残るパレスチナ人(ここを支配する「国家」との関係性を明示するならアラブ系イスラエル市民, あるいはパレスチナ系イスラエル市民)の老人に出会った。

その日はハイファの宿に泊まり, 翌 1983年10月5日 には, ハイファからナザレに日帰りの旅をし, 

そして, 下掲の旅日記 1/3 にある通り,

バスで ハイファにもどった。バスターミナルから 海に沿って, きのう見た 使われてないモスクのあたりまで 歩いた。そのモスクの近くで, アラブ人ばかり たくさん乗った, 少し汚ないバスを見た。そういうバスがあるのだろう。

当時, 「48イスラエル」の域内で 街を走るバスを見て, ふと気づくことがあった。それは, 何か社会制度的な背景があるのかどうかは確かめられなかったが, アラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)が大勢乗っているバスと, 「48イスラエル」の中で多数派となるユダヤ系イスラエル市民が "普通" 乗るバスとの間に, 区別があるように思えたということ。前者はたいてい古い, 言わば年季が入った中古車で, 見た目は率直に言って汚ない, 要は「綺麗」にしていないバス。且つ昔風の言い方で「労働者」がたくさん乗っている感じに見えるものが多く。そして後者は, 新しいバス。小綺麗なバス。見た目に映るこの「区別」の向こうには 差別 があるんだろうなと思わせるものだった。要するに, アパルトヘイト時代の南アフリカ, あるいは奴隷制度のあった時代とまで言わずとも奴隷制の名残があった頃のアメリカ合州国の深南部のそれを彷彿とさせるような。

海の方から 上へのぼっていって きれいな街に入ると ユダヤ人ばかりというかんじだが, それでもアラブ人と思われる人たちは よく見る。明らかにそうだという人も。標識等のアラビア語併記も多い。

旅日記 1/3

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*上掲の旅日記の頁, 下部の左の「イスタン」はトルコのイスタンブール。1983年4月26日に日本を発ってからソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ, シリア, ヨルダンを旅した後にこのパレスチナ/イスラエルの旅をしていたのだが, 最後にイスラエルによる軍事占領下のガザ地区を発って陸路 エジプトに向かった後, 同国滞在後にカイロから飛行機で再びトルコ・イスタンブールに行く予定にしていたことに絡む備忘録。

写真:1983年10月5日, 日帰りの旅をした「48イスラエル」のナザレから 同じく「48イスラエル」のハイファにもどって, ハイファの街を歩きながら撮ったもの(ハイファの港, そして使われていなかったモスク)。

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以下, 下掲の 旅日記 2/3 より引用。

ここ ハイファ に住むアラブ人(パレスチナ人)も そんなに少なくはないようだ。今も わりといる。彼らはどんな生活をしてるのか。彼らはイスラエルのパスポートをもつときく。彼らは この ユダヤ人の国イスラエル において, 法的にどのような存在なのか。実際に どういう扱いを受けてるのか。たとえば参政権は? 投票できるにしても, 彼らが投票したいような人, 政党はあるのだろうか? 彼らは立候補などできるのだろうか。(たぶんできない。できても人口比率からいって当選はムリだろう) 子供の教育はどうなのか? 就職の機会についてはどうか? 

イスラエル(「48イスラエル」)には一応はアラブ系の政党があり, 若干の議員も存在するが, しかしイスラエルは今から3年前(2018年), クネセト(イスラエル国会)において, 自決権はユダヤ人にだけ認めて公用語もヘブライ語のみとするといった内容のいわゆる「ユダヤ人国家法」を成立させている(「48イスラエル」域内の人口の約2割はアラブ系市民すなわちパレスチナ人であるにもかかわらず)。

イスラエルの体制は, 1967年6月の軍事侵攻以来 同年11月に採択された国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反しながら既に半世紀以上の軍事占領, 実質的な軍事支配を続ける東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区や, 筆者が旅した1983年当時は同じく軍事占領下にあり, 2005-6年以降は軍事封鎖下にあるガザ地区に住むパレスチナ人の基本的人権を保障せず, 占領地(西岸地区)には今も国際法違反のイスラエル・ユダヤ人の違法入植地を建設し続け, 一方でそれ以外の「48イスラエル」域内の社会(イスラエル「国内」社会)においても, アラブ系市民(パレスチナ人)への差別を省みない。

イスラエルは ヨルダン川と地中海の間に存在する 「アパルトヘイト」 レジームである(イスラエル最大の人権団体 B’Tselem) 〜 これに対し, イスラエル「擁護」専門家の抗弁は?

以下, 引き続き, 旅日記 2/3 より引用。

今日 ナザレで道を教えてくれたイスラエリ・ユダヤ人にしてもそうだが, もちろんイスラエル・ユダヤ人も 他と同じく 1人1人とれば いい人たちのはず。しかし 政府だけが悪いとは言えない。今の政府を成り立たせているのが 彼らであることは, 動かしがたい事実なのだ。彼らの目には アラブ人は どう うつるのか。視界に入るはずなのだ。建国の歴史をどう考えているのか?

旅日記 2/3

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以下は, 下掲の 旅日記 3/3 からの引用。

前々回のハイファ旅 note に書いたように, そもそもハイファには「バルフォア ストリート」なんて名の通りがあるのだが(泊まっていた宿の近くにあった), 

夕方, ハイファの Town Hall 近くの garden に行って ベンチにすわって休んだ。そこには ちょっとした彫刻があって, ヘブライ語で何か書いてある。そして「ハイファ解放 1948」という英語(ハイファ リベレーション 1948)と アラビア語(数字がアラビア数字の 1948 だし, すぐ下に書かれてあったから やはり「ハイファ解放 1948」なのだろう)が あった。ごていねいにも, アラビア語までだ。これを見るパレスチナ人の気持ちはどんなものか。

全く, どんな気分にさせられるものだろう。

この下に書かれている「ファラフェル」は, パレスチナ/イスラエルをはじめとする中東(西アジア)の国々でよく見かける料理。筆者にとっては, パレスチナで食べたものと言えば真っ先に思い出すのがこのファラフェル。とにかく美味い(どんなものかはここでは説明割愛!)。

さて, 以下も 旅日記 3/3 からの引用の続き。

今 言っても仕方ないかもしれんが, 最も責任あるのは ヨーロッパ である。ナチ・ドイツである。バルフォアのイギリスである。ユダヤ人を差別し, そのユダヤ人問題を アラブに出すことで解決しようとして 新たに パレスチナ問題を生んだ ヨーロッパ である。

この辺りのことについては, 本 note 第2章 を

旅日記 3/3

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ハイファの街にて, 選挙用ポスターのようなものをよく見かける。ベギン もやめたことだし, 総選挙でもするのかな?

翌朝, ハイファから テルアヴィヴに向かったのだが, 以降は 次回の旅 note に譲るとして, ここでは上記の「ベギン」について。

旅日記には「ベギンもやめたことだし」とあるが, それは辞任表明を指す。下であらためて言及するように, メナヘム・ベギンは, 1977年6月20日から1983年10月10日まで イスラエル首相を務めた人物

1948年5月のイスラエル「建国」の前には, パレスチナを委任統治していたイギリスや, 更にはアラブ系住民(パレスチナ人)に対するテロリストだった男で, 後に イスラエル首相 の座に昇り詰めた, メナヘム・ベギン

ベギン については 前々回のハイファ旅 note にも機会があって転載したけれど, それは 元々この note の

第3章 パレスチナ/イスラエル見聞録 〜 1983年10月3日 の中の 旅日記 4/4 にある, ヤド・ヴァシェム(西エルサレムにある, イスラエルが 1953年にクネセトつまりイスラエル国会の決議に基づいて設置したイスラエル国立の「ホロコースト記念館」)で見た説明に関連しての記述。その部分をあらためて以下に転載する。

「イスラエル」への「帰還」とあるが, 20世紀に作られた国「イスラエルは, 1948年5月以前は存在しない国。
なお, 「イギリスは ユダヤ人が パレスチナに帰ること(enter to Palestine とあった)を拒絶したが, 非合法の帰還をふせげなかった, という説明」について, 当時のシオニストたちが, パレスチナ人に対してだけでなく, イギリスに対してもテロ活動を行なっていたことに関連し, 後にイスラエル首相となるメナヘム・ベギン(מנחם בגין‎, Menachem Begin; 1913年8月16日生まれ, 1992年3月9日他界)のことを, 以下の旅日記 当該頁の写真の下に, 書いておきたい。

(以下は, その 1983年10月3日付 旅日記の一部, 「当該頁」)

画像9

メナヘム・ベギンは, 1977年6月20日から1983年10月10日まで イスラエル首相を務めた人物 である。つまり筆者のパレスチナ/イスラエルの旅の途中の時期まで, 彼はイスラエルの首相だった。
メナヘム・ベギンは, ロシア領ブリスク(現ベラルーシ領ブレスト)生まれ, 同地は1919年から1939年にかけてはポーランド領, 1939年からソ連が占領。ベギン自身は1942年のソ連脱出後にユダヤ人の非公然武装組織イルグンに参加し1947年頃にはそのリーダーになっている。ベギンが参加していたイルグンは, 当時パレスチナ(イギリス委任統治領パレスチナ)に駐在していたイギリス軍司令部があったエルサレムのキング・デイヴィッド・ホテル爆破(1946年7月, 91名死亡)といったテロ活動を行なったが, さらにベギンがリーダーとなって以降のイルグンは, 1948年5月のイスラエルによる一方的な「建国」の宣言の直前, 同年4月のパレスチナのデイル・ヤシーン村におけるパレスチナ人村民(アラブ系住民)虐殺(犠牲者数は定まっていないが, 少なくとも107人以上が殺されたとされる)などのテロも行なっている。
これらは歴とした事実, 当然ながら歴史的な事実と認定されている事件なのだが, 要するに当時のパレスチナ駐在中のイギリス人や住民であるパレスチナ人(パレスチナに住んでいたアラブ系住民)などに対するテロを行なった, 文字通りのテロリストであった男が, 後にイスラエルの首相になっているということ。ウィキペディアによればベギンは「パレスチナ人は2本足で歩く野獣である」と公言していたとか。(首相辞任の前年)1982年のレバノン侵攻時もイスラエルの首相はベギン
因みにイスラエルによる1982年のレバノン侵攻といえば,

今も胸くそわるくなる ボブ・ディラン の 恥知らずなイスラエル支持ソング に触れたところで, 本章は終わり。

5. ここまでの振り返り 〜 1983年4月26日に 日本を発って, 9月28日から パレスチナ/イスラエル

1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後, 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時においては16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区に入り, エルサレム旧市街がある東エルサレムに宿をとった。以下リンク先 note *2 の第1章では パレスチナ/イスラエル問題を概観(今日の note の第2章はこれを転載して若干補筆したもの), 第2章でエルサレムで撮った写真を掲載, 第3章で最初の2日間の見聞録を載せ, 第4章ではパレスチナ系ヨルダン人のバンドの曲を紹介した。

その時代, 1982-83年頃がどんな時代だったか, とりわけパレスチナ人, パレスチナやイスラエル, レバノンに関わってどんな時代だったか, その一端, とはいえ重要かつ重大な一端に触れることになるのが, 今日のこの note の前章の最後でもリンクを付した, 以下の note *-1 にある1982年のイスラエルのレバノン侵攻, そして同年9月にベイルートにおいてイスラエル軍が包囲するパレスチナ難民キャンプ(サブラ・シャティーラ)で起きたパレスチナ難民等虐殺事件(因みに34年後の2016年にノーベル文学賞を受賞することになるユダヤ系アメリカ人の "セレブリティ", アメリカ合州国の紛れもないメインストリームのロック・ミュージシャンである ボブ・ディラン は, その直後に 恥知らずなイスラエル支持ソング を書いて翌1983年の彼の公式アルバム "Infidels"「異教徒たち」に収録している)。 

なお, 話を戻して, 1983年秋のパレスチナ/イスラエルの旅の3日目は, 西岸地区にあるパレスチナの街, キリスト生誕の地と信じられているベツレヘムを訪問し(note *3), 4-5日目にはジェリコ(エリコ)そしてマサダ死海に行った(note *4)。6日目は, 東エルサレムのエルサレム旧市街を歩き, 西エルサレムでは「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム)を訪ね, とエルサレムの「東西」巡り(note *5)。7日目, 1983年10月4日は, エルサレムをひとまず発って「48イスラエル」の都市ハイファに行き, 今も強く印象に残るパレスチナ人の老人に出会った日(note *6)。8日目, 1983年10月5日は, ハイファから日帰りでナザレへの旅をし(note *7), そしてナザレからハイファに戻った時のことは, 今日のこの note の前章に書いた。

また, 日本を発って以降, パレスチナ/イスラエルの旅に入る前に関しては, 以下リンク先 note *1 の第3章 1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国, および 第2章 ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン にて。

*−1 ノーベル賞の季節になると思い出す, 2016年ノーベル文学賞受賞のボブ・ディラン。ディランの恥知らずなイスラエル支持ソングは, 1982年イスラエルのレバノン侵攻と同年9月のレバノンにおけるイスラエル同盟者であったキリスト教右派民兵たちによるパレスチナ難民等虐殺事件(ベイルート, イスラエル軍が包囲したサブラ・シャティーラ難民キャンプにて)の直後に書かれ, 1983年リリースのアルバム "Infidels"(「異教徒たち」)に収録。 

この一文は, 今も胸くそがわるくなる ボブ・ディラン 恥知らずな 1983年リリースの イスラエル支持ソング についての上掲 note と, 以下の 1983年の自分の旅 note との間に距離を置くための一文なり。

*1 再びの アンマン(ヨルダン), 1983年9月26・27日 〜  第3章で 1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国, その前の第2章は, ギリシャ・アテネからトルコ・イスタンブールに移動した後の ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン

*2 パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る

*3 ベツレヘム(パレスチナ) 〜 1983年9月30日

*4 ジェリコ, マサダ・死海; 1983年10月1, 2日 〜 そして2021年のいま白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル

*5 エルサレム旧市街と「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日

*6 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月4日

*7 ナザレ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月5日

とにかく, まだこの旅の途中 ♫

さてさて, 今日も今日とて, note の締めは音楽で ♫ 

早く家に帰りたい, と当時 思ってはいなかったけれど 〜 『早く家に帰りたい』(Simon & Garfunkel, Paul Simon & George Harrison), 歌詞和訳

言うまでもなく, 今日の note で取り上げた問題における「望郷の念」と, この歌における「早く家に帰りたい」気持ちは質が相当に異なるけれど, 重なるところが全く無いとまでは言わない。

さて, 今日のこの note で取り上げたパレスチナ/イスラエルの旅は 鉄道の旅ではなかったけれど(それはバスやヒッチハイクや歩きの旅だった), それよりだいぶ前の時期における, 前章で言及したソ連・ヨーロッパ諸国の旅での移動に関しては, そのほとんどが「鉄道の旅」だった(西ドイツの西ベルリンから歩いて東ドイツの東ベルリンに入ったりとか, イタリアからギリシャへの移動は船だったりもしたけれど!)。

この歌は ポール・サイモンが 1965年, 彼が 23, 4歳の頃に作詞作曲したもの。その歌詞を 2004年2月29日に日本語に訳して(拙者 43歳なり), そもそもその頃に note ってなかったけれど(筆者が note を始めたのもわりと遅く 2019年9月11日, 59歳の誕生日!), 2020年11月12日にそれに関して note に投稿した(ここに都度, 年齢を書いたのは多分ただの成り行き.. だと思う)。

Homeward Bound 〜 from Simon & Garfunkel's second studio album "Sounds of Silence" (UK version, January 1966) and their third studio album "Parsley, Sage, Rosemary and Thyme" (US version, October 1966) ♫

Homeward BoundGeorge Harrison (February 25, 1943 – November 29, 2001) and Paul Simon (born October 13, 1941), from "Saturday Night Live" on November 20, 1976 ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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僕は駅舎で座っている
目的地への切符なら買った
一夜限りのライブを転々とする旅さ
スーツケースとギターを手に持ってね
どこに行ってもきれいに揃ってるよ
詩人を兼ねたワン・マン・バンド用にね
家路に・・・
今 家に向かっているのならいいのに
僕の想いが宿る家
愛する音楽が流れる家
愛する人が待っている家
静かに 僕を

毎日が果てしない川の流れのよう
タバコと雑誌でやり過ごす
どの街も僕には同じに見えるよ
映画館や工場
そして見知らぬ人々の顔
何を見ても僕の想いが向かうのは
家路なのさ
今 本当に家路にあるのならいいのに
僕の想いが宿る家
愛する音楽が流れる家
愛する人が待っている家
静かに 僕を

今夜また 僕は自分の歌を歌い
堂々とやって そして取り繕う
だけど僕のどの言葉も自分に帰ってくる
月並みな陰影を帯びながら
ハーモニーが持つ虚しさのように
だから 慰めてくれる誰かが必要なんだ
家路・・・
今 家に向かっているのならいいのに
我が家 そこには僕の想いが宿り
我が家 そこでは愛する音楽が流れ
我が家 そうさ 愛する人が待っている
静かに 僕を
静かに 僕を

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