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イタリアからギリシャへと地中海を渡るフェリーで聴いていた 〜 ダイアー・ストレイツとピンク・フロイド

1983年7月10日、イタリアからギリシャへ


1983年4月26日、横浜港から日本を発って2泊3日のフェリーの旅で当時のソビエト社会主義共和国連邦、今のロシア連邦のナホトカへ(ナホトカ航路はそれから9年の後、1991年のソビエト連邦崩壊に伴い翌1992年廃止、今や「伝説の」ナホトカ航路)。4月28日にナホトカに着いてそこで1泊、列車で移動してハバロフスクでも1泊。拙者が旅した当時は確かウラジオストクにはソ連の軍事的理由で外国人は入れず、ハバロフスクから先がシベリア鉄道の旅。途中バイカル湖がある街イルクーツクで下車して1泊、そのあと、再び延々とシベリア鉄道の旅をしてモスクワへ(シベリア鉄道の列車はトータルで7泊8日ほど乗車したことになると思うが、どっちが3泊でどっちが4泊だったのか、当時の自分の旅日記を読み返さないと分からない、それはまたいつかの note 投稿にて、たぶん!)。

モスクワで2泊、その後はフィンランドに行きヘルシンキにて1泊、さらに北欧諸国を巡りつつヨーロッパ大陸を南下、イタリア・ナポリまでユーレイルパスの二等列車の旅をして2ヶ月。イタリアではヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ(とイタリアではないけれどバチカン市国も!)、ナポリ(からポンペイも!)など見聞の旅、10日間(じゃ十分じゃないけどなぁ)。

あ、ポンペイ。

あ、脱線リンク、3連発。しかも 2, 3本目はもうポンペイからも離れてる(笑)。

まぁ本 note 投稿のタイトル「イタリアからギリシャへと地中海を渡るフェリーで聴いていた .. 」に絡めるなら、書いた通り、実際聴いていたのはダイアー・ストレイツだけでなく、ピンク・フロイドも、なのだ(ただしそのとき聴いていたピンク・フロイドは "The Final Cut" であって「エコーズ」"Ehoes" が収録されている "Meddle" ではなかったけれど)、だから辛うじて、かな〜りの辛うじて、関係がないわけではないわけではないわけでは .. どっちだ!

などと言っていても埒が明かないので、話をイタリアに戻すと..

そして(何処からの「そして」かというと上の脱線 3連発リンクのさらに上からの「そして」)、イタリアはブリンディシ(アルファベット表記 Brindisi のイタリア語発音はブリンディジと濁るようだがそれは今まで意識してなかったので以降「ブリンディシ」と表記、ネット上の日本語表記も「ブリンディシ」の方が多そうだけど)の港を発って16,7時間のフェリーの旅でギリシャのパトラス(ギリシャ語で Πάτρα / Pátra だが英語表記は Patras で拙者はカタカナ発音の「パトラス」で覚えてきた、ただネット上の日本語表記をチェックすると「パトラ」の方が多そう、しかし以降も自分に馴染みある方をとって「パトラス」表記の方を採用する)に向かったのが、1983年7月10日、日曜日(曜日はいまその時の旅日記を見て確かめた!)。本 note 投稿のタイトル的にはここから次章へ。

因みに 7月11日にギリシャのパトラスに着いた後はアテネに列車で移動。ギリシャはアテネとエーゲ海の島サントリーニに合わせて1ヶ月滞在、その後はトルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、エジプト、再びトルコ、次はイラン、パキスタン、インド、タイ、韓国。

(以下、もちろん全部はカヴァーしてないけれど)

上のリンク先 note 投稿、その投稿タイトル上に掲げた写真は、「ベルリンの壁」があった時代の東ベルリン・ブランデンブルク門の前で撮った、何というか、要するに今となっては時代モノの「記念写真」。

イタリアからギリシャへと地中海を渡るフェリーで聴いていたダイアー・ストレイツとピンク・フロイド(本編)

というわけで(どういうわけかは前章にて)、1983年7月10日、日曜の朝、イタリア は ブリンディシ に着。

これ、フランス人のミッシェル・ポルナレフ の歌ですけど。しかも 日曜日が Holidays に含まれるのかどうかは実は微妙。深入りしないけれど、英語辞書的には(この歌、フランス語だけど、笑)含まない可能性大?だけど、一方で "Sunday is a holiday" という表現は一般的に存在するようで、無神論者の拙者が当然ながら全く信仰しないキリスト教的には日曜が安息日なので(ユダヤ教が土曜日、イスラームだと金曜日、バラバラやんけ!)、日曜も彼らの宗教的には .. Holiday かな!?

何度、脱線するんだろう ♫ 何故、音符 ♫ なんだろう?

戻します。

ちょっとだけ前の行程に戻ると 1983年7月9日の土曜の夜、ナポリ を夜行列車で発ち、翌7月10日の朝、ブリンディシ に着。

ブリンディシ では泊まらなくて、でも街をぶらついてから行ったのかな、その辺あまり思い出せないのだが、とにかくその日に フェリーで ギリシャ の パトラス に向かうつもりだったので、明るいうちに港に行って チケットを買い、乗船手続きをした。

ブリンディシ の港で写真を撮ってないから、以下は ネットから拝借。

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で、その乗船手続きをする場所で、日本人女性バックパッカーに会った。この人、拙者より 2歳年上の女性で、話していて単純に驚いたんだけど、日本を発ったのが拙者と同じ同年1983年4月26日、しかも同じ横浜港からの同じフェリーでの出国、本 note 投稿の冒頭で触れた通りの今や「伝説の」ナホトカ航路による日本脱出だった。そしてそこからが拙者とは違い、彼女はナホトカを出た後、中央アジア経由のモスクワ行きというルートだったとのこと。

日本をたまたま同じ1983年4月26日にたまたま同じ横浜港から同じフェリーで発って、当時のソ連のナホトカに着、その間は全く面識なかったけれど、それから2ヶ月半ほど経過した1983年7月10日にイタリアのブリンディシの港で会った、というわけで多少(!)ロマンチックな出会いのような気もするけれど、まぁ「人生とは偶然と必然の綯い交ぜである」(フリードリヒ・ニーチェ .. 嘘だよん!)(でも人生が偶然と必然の綯い交ぜである、というのはたぶん本当のことで、誰が言ったかというと拙者!)、したがって、こんなことあっても不思議でも何でもない .. ということでしょう!

話しているうちに音楽の趣味などがあって親しくなった。彼女の好みはプログレを含むブリティッシュ・ロックということで、何というか知的な感じの人だったので、それはけっこうお似合いのテイストだったかもしれない。なんかね、イメージ的に、思い切り乱暴に語ると、ブリティッシュ・ロックは比較的知的、アメリカン・ロックはひたすら陽気。これはとりあえずこの文脈上の便宜的かつ滅法ランボーな分類(笑)。

因みに、拙者自身はブリティッシュもアメリカンも好きな日本生まれロック育ちの人間。

さて、その人も同じくブリンディシからパトラスに向かうフェリーに乗る予定だったんだけど、拙者と日は違って後日のこと。拙者のその日の旅日記によると、彼女から「よかったら今日ご一緒してくれませんか」と言われたらしく(日記だから流石に脚色はないだろう、笑)、その日はそのまま港で話したり、街をブラついて公園で話したり、その後、レストランに行って夕食の時間も共にしたりした。

で、ここからようやく(!)本 note 投稿のタイトルの方に向かうわけだけど、つまり、「イタリアからギリシャへと地中海を渡るフェリーで聴いていた 〜 ダイアー・ストレイツとピンク・フロイド」。

件(くだん)の日本人女性バックパッカー、上述の通りでプログレを含むブリティッシュ・ロックのファンだったのだが、プログレ以外だと当時ダイアー・ストレイツがかなり好きだったようで(旅の途中フィレンツェでダイアー・ストレイツのコンサートを観たというくらいで)、その時、例の、1983年のその頃は全世界を席巻していた、2021年の今や凋落傾向が寂しい日本がしかし当時は日本製品ここにありとばかりに誇っていたものの象徴的な一つだった(長い修飾だったな、笑)、ソニーのウォークマン式カセットプレイヤーを持っていて(彼女のはソニーじゃなくてアイワだったと細かいけど拙者の当時の旅日記に書いてある)、そのウォークマン型カセットプレイヤーとイヤホン(細かい、でもこれがないと聴けない、笑)、そして併せて持っていたピンク・フロイドの1983年3月リリースのアルバム "The Final Cut" を録音したカセット、およびダイアー・ストレイツのアルバムその3枚目と4枚目(1980年10月リリースの "Making Movies", 1982年9月リリースの "Love Over Gold")をそれぞれ録音したカセットを、何ともはや親切なことに拙者に貸してくれたのだった。

上に書いたように後日やはりブリンディシからギリシャのパトラスにフェリーで渡ったその日本人女性バックパッカーとは、その後、アテネで再会、その時に借りていたウォークマン型カセットプレイヤーとイヤホン(細かい、しつこい、でもこれがないと聴けない、しつこい、笑)、そして上記の通りのカセット3本をそこでお返しすることに相成った。

カセット3本のうちのピンク・フロイド "The Final Cut" のタイトル・トラックはこんな感じで、そもそもこのアルバム、冷戦末期の当時の時代背景とロジャー・ウォーターズの私小説あるいは自伝的私小説のようなアルバム・コンセプトと相まって、歌詞だけでなく、メロディやサウンド自体もひたすら暗く沈鬱。

なので、イタリア・ブリンディシからギリシャ・パトラスまでのフェリーのデッキの上、アドリア海とイオニア海を跨ぐ地中海の上で聴く音楽としてはいかにも沈痛過ぎる感じがあって、このアルバムの方も拙者、実際に船上で聴いたのだと思うが、なかなかにこれが記憶に残っていない。

当時の船旅の途上この眼で観た「筆舌に尽くしがたい」(旅日記に自分でそう書いている)ほどに美しい紺碧の海と、そして頭上に見える見事に晴れ渡った空と共に思い出すのは、やはりダイアー・ストレイツの方で。

例えば1980年リリースのアルバム "Making Movies" のオープニング・トラック, "Tunnel of Love" ♫

同じアルバム、レコード LP で言えば B面1曲目に当たる(当時はそれをカセットで聴いたんだからその時はA面もB面もないけれど), "Expresso Love" ♫ 

自分の旅日記を見返すと、「デッキにて寝袋で寝る」と書いてあるんだけど、日記には拙者が乗船したフェリーがブリンディシを何時発だったのかのメモがない。いまネット上をググると、16時間ほどかかるブリンディシ・パトラス間のフェリーは、単に運航する会社によってタイム・テーブルが異なる事情からか、例えばブリンディシを17時発のものや同21時発のものが出てくる。

はて、当時の自分が乗ったフェリーは何時発だったのか、現時点では想像する他ないのだが、パトラスに着いてから、翌7月11日(月)付の日記には「パトラス 汽車乗り遅れ、次のヤツに乗ったが それが遅れ アテネ10:30頃着」と書いてあって(前者から線が引いてあって「2頃」、後者も同様に「5頃」と補足メモ)、おそらくそれは午後の2時頃、5時頃、10時半頃のことで、だからたぶん、ブリンディシをおおよそ21時頃発だったのかな。

本章のそこそこ最初の方でも書いた通り、ブリンディシの港で写真を撮ってないから、以下もネットからの拝借。これは夜のブリンディシ港。

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で、こちらはダイアー・ストレイツ1982年リリースのアルバム "Love Over Gold" のオープニング・トラック, "Telegraph Road" ♫

さて、上にも書いたけれど、当時の拙者のブリンディシ・パトラス間フェリー日記部分には、「海の青さは筆舌に尽くしがたい」なんて書いてある。

そう書いてあるのに、そのフェリーから一枚も写真を撮っていないのが残念と言えば残念(当時はなんと言ってもスマホどころかガラケーすらない時代、フィルムは貴重でバックパッカー貧乏旅行者の長旅途上だった拙者は其処彼処でフィルム節約せざるを得なかったのだ)、代わりにと言っちゃナンだが(ナンはインドの美味しいパン、インドも行ったがそこまで脱線するとキリないのでこの括弧内に留め)、ギリシャに1ヶ月ほど滞在した間に、アテネから4泊5日の旅をした地中海サントリーニ島での写真をば。

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1983年7月31日、写っているのは手前が当時の拙者の恋人で、その向こうに拙者 ♫

あ、ロッド・スチュワートと言えば ♫ 拙者の節約ならぬ拙訳ならぬ名訳つき。

あ、ロッド兄いと言えば、"Every Picture Tells a Story" も彼の名曲 ♫ こちらも拙者の拙訳ならぬ名訳つき。

さて、上の方に載せた1983年7月31日のサントリーニ島で撮影された写真、「写っているのは手前が当時の拙者の恋人で、その向こうに拙者」というのは "I Was Only Joking" ♫ で、あの写真を撮影したのが拙者本人。

でも、最早あまりにセピア色系の写真で、あの写真ではエーゲ海の海の「紺碧」の青さはさっぱし分かりませんね。失礼しやした。

それはともかく、

上の方で書いていた、ブリンディシの港で会ってウォークマン型カセットプレイヤーとイヤホンとピンク・フロイドの "The Final Cut", ダイアー・ストレイツの "Making Movies", "Love Over Gold" の各アルバムがそれぞれ入ったカセットをブリンディシ・パトラス間のフェリー乗船前の拙者に親切にも貸してくれ、乗船前しばらく話したり街のレストランで一緒に夕食したりした日本人女性バックパッカーとはアテネで再会して借りていたものを返却、その後、日本帰国後に2度ほど会った。その間しばらくバックパッカーの旅の間も含めて文通めいた(というか手紙のやり取りだから文通そのものか、旅の間は各地の日本大使館・領事館など気付で)通信をしていて、日本帰国後はダイアー・ストレイツ1984年3月リリースのライヴ・アルバム "Alchemy: Dire Straits Live" を録音したカセットや、マイク・オールドフィールドの1983年5月リリース "Crises" を録音したカセットを送ってくれたりして .. といった思い出が残ってる。最後に電話して話した時は、先方は結婚していた。

"Crises" 収録曲 "Foreign Affair", ヴォーカルは Maggie Reilly ♫ 

で、旅の話に戻ると、

件(くだん)の日本人女性バックパッカーはもともと大学で西洋古代史を専攻した人で、その後、ギリシャの後はトルコ、シリア、ヨルダンを旅していて、シリアではパルミラ、ヨルダンではペトラの両「ローマ帝国の時代と深い関わりがある超美しい」古代遺跡を訪れている。あの辺りは現代はイスラームが主たる宗教で女性の一人旅は困難を伴うので(そもそも奇異に見られるが一言で言うと不都合なことばかり)、途中知り合った日本人旅行者二人を伴い、3人で行動したとのこと。

拙者もギリシャの後トルコ、シリア、ヨルダンに行き、その後はパレスチナとイスラエル、エジプトなど旅したのだが(更にはトルコに戻り後は東へ東へ、イラン、パキスタン、インド、タイ、韓国)、その日本人女性バックパッカーはイタリア・ブリンディシやギリシャ・アテネで会った当時、シリアのパルミラとヨルダンのペトラの遺跡を観ることを非常に楽しみにしていたということ、その辺り、どういうわけか(どういうわけもこういうわけもないか、笑)、よく記憶している。

パルミラ、ペトラ、ともに拙者も相前後して旅していて(イスタンブールの日本領事館気付で受け取った彼女からの手紙にパルミラなど行ったことが書かれていた、要するにギリシャとトルコでのんびりした拙者の方が遅れて行ったことになる)、

ペトラについては本 note 投稿、本章の上の方でリンクを貼った「海外『放浪』蔵出し写真集 〜 "Every Picture Tells a Story" (Rod Stewart) [歌詞和訳]」と題する以前の note 投稿の第2章「Every Picture Tells a Story 〜 海外『放浪』もどきの旅の写真集、特に厳選しないで(笑) 数十枚」に当時撮った超絶美しい遺跡の写真を何枚か載せたけど、パルミラについては、

に、冒頭の章で訳あってなんと(!)懐かしのアグネス・ラムの写真を載せてその後も延々と勿体ぶって引っ張った挙句、「古代遺跡が大好きな皆さん、お待たせしました、シリアのパルミラ 〜 IS 通称『イスラム国』の莫迦どもが破壊する前の見事な遺跡の姿、蔵出し写真集」という矢鱈メッタら長い見出しの最終章で、同じく当時撮った超絶美しいパルミラの写真をたくさん蔵出し掲載した(ま、最早セピア色系の写真にはなっているけれど!)。

イスタンブールの Dire Straits "Sultans of Swing" 〜 Bosporus Straits, Sultan Ahmed Mosque

ギリシャに 1ヶ月いた後、アテネから 2泊3日の列車の旅で、トルコのイスタンブールに行った。あっと、でもこれはダイアー・ストレイツ話ではなくて、出てくる歌はホール・アンド・オーツの "Maneater" ♫

イスタンブールには、その時と、それからトルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、エジプトを旅した後、カイロから再び(その旅での初めての飛行機で)イスタンブールに戻って、都合 2度、合計 5週間滞在した。

で、イスタンブールと言えば、ボスポラス海峡, つまり Bosphorus [Bosporus] Straits, もしくは Bosphorus [Bosporus] Strait, もしくは単に the Bosporus, そしてトルコ最大の都市イスタンブール(首都はアンカラ)にある世界的に有名なモスクと言えば俗称ブルーモスク、正式名称は Sultan Ahmet Camii, 英語では Sultan Ahmed Mosque, となれば、

1978年7月にリリースされたダイアー・ストレイツの彼ら自身の名を冠したデビュー・アルバム "Dire Straits" 収録のヒット曲 "Sultans of Swing" ♫

拙者はあのアルバムを高校3年の時に買って、それ以来のダイアー・ストレイツのファン(あのバンド自体は1995年に解散、既にそれから四半世紀以上経っているわけだけれど!)

1) Bosporus Straits

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2) Sultan Ahmed Mosque

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ピンク・フロイド "The Final Cut" とダイアー・ストレイツ "Love Over Gold" に登場する 'Japanese' 〜 1980年代初期の世界における「日本」の立ち位置を振り返る

1) 1983年7月10日から11日のイタリア(ブリンディシ)・ギリシャ(パトラス)間のフェリーの船旅にて、地中海の上で聴いていたカセットのうちの1本、ピンク・フロイド 1983年3月リリースのアルバム "The Final Cut" のオープニング・トラック "The Post War Dream" はこんなイントロで始まる。

"nuclear" という文言が踊る米ソ冷戦末期、フォークランド紛争は今や「懐かしく」思えるような歴史上の事件だが、そこに "Japan" が! 

“…announced plans to build a nuclear fallout shelter at Peterborough in Cambridgeshire…”
“…three high court judges have cleared the way…”
“…It was announced today that the replacement for the Atlantic
Conveyor, the container ship lost in the Falklands conflict would be built in Japan. A spokesman for…”
“…moving in. They say the third world countries, like Bolivia, which produce the drug are suffering from rising violence…”

2) 同じく "The Final Cut" から、アルバムの最後から 2番目の曲 "Not Now John" ♫ その歌詞もそうだけど、このミュージック・ヴィデオなんか、芸者風の女性はじめ、デフォルメされた日本や日本人のイメージが其処彼処に。

"wily Japanese" なんて、直訳すれば「ずる賢い日本人」、「狡猾な日本人」ってことだからね、ヴィデオの中のイメージと合わせ、観る人・聴く人・歌詞を読む人によっては酷く人種差別的と見做される歌(とヴィデオ)だったりするんだろうけど、あの当時の「飛ぶ鳥を落とす勢い」だった日本、確かアメリカ合州国の "Time" か "Newsweek" 辺りだったと思うけれども、"Arrogant Japanese", つまり「傲慢な日本人」もしくは「横柄・尊大な日本人」なんていうギョッとするタイトルの特集まで組まれた時代、逆にあの頃は凋落傾向にあった The British Empire「大英帝国」ならぬ The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」から観た日本や日本人、要するに、日本人は世界中にモノを売りまくりながら一方で何を考えているのか・どんな世界観を持っているのか世界に向けて殆ど主張しない/表現しない人たちだった訳だから、まぁそんなもん、日本の外側、世界から観た日本や日本人なんて、あんなもんだったのかもしれない。「どんな世界観を持っているのか世界に向けて殆ど主張しない/表現しない」からワケ分からん、理解しにくい人たち、という点においては、悲しいかな 2021年の今も世界における日本人のイメージはほとんど変わってないような気もするのだが。

ただ、まぁこの歌詞、"No need to worry about the Vietnapeace", "One, two, Free Four!" といったフレーズも登場していて、字面通りに受け取るのでなく、相当に皮肉や場合によったら自虐みたいなものまで込められている、そんなニュアンスを感じ取るのが正しいかもしれない。

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*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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3) さて、これはダイアー・ストレイツ 1982年9月リリースのアルバム "Love Over Gold", そのレコード LP, B面の1曲目に収められた "Industrial Disease" ♫

前項で取り上げたピンク・フロイド 1983年3月リリースのアルバム "The Final Cut" に収録された "Not Now John" と同様、この歌の歌詞にも、(1回だけだが)"Japanese" が登場する。ただし、前者の "Japanese" は「日本人」で、この歌での "Japanese" は「日本製品」。

当時の日本が「世界」においてどんな「日本」だったか、そのあらましは前項に書いた通り。

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*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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1983~1984年のバックパッカーの旅に出かける前の拙者 〜 札幌・深夜の大通公園にて大人の「はないちもんめ」

ピンク・フロイドと言えば

ピンク・フロイド関連(部分的でも丸ごとでも!)、拙者の過去の note 投稿リンクをどかどか、とは言え今までのうちのその一部について、以下に載せてしまうの巻。

1)

2)

3)

4)

5)

6)

7)

8) 夫(拙者は拙者の妻の夫であ〜る!)おっとオット、そう言えば今日のこの note 投稿で取り上げたピンク・フロイド 1983年3月リリースのアルバム "The Final Cut" のエンディングはこの曲、"Two Suns in the Sunset" ♫

で、映画 "2001: A Space Odyssey", 邦題「2001年宇宙の旅」の続編 "みたいな感じ" で作られた映画 "2010: The Year We Make Contact", 邦題「2010年」は、あれはもう監督もスタンリー・キューブリックじゃなくなってたんだけど、あの不朽の名作の続編 "みたいな" 映画の出来はかな〜りイマイチだったものの、どうしてこれをいま書いているかというと、あの映画「2010年」の物語の中で太陽が二つ登場してしまうのだ!二つの太陽、日没時になればまさしく "Two Suns in the Sunset" ♫ 落ちがよろしいかどうかは微妙だけど(笑)、勿体ぶった "ついで",

この "ついで" はさしてわるいものでもありませんぞ。「2010年」じゃなくて前者、不朽の名作の方の「2001年宇宙の旅」

となれば以下も ... ん? でもこれは 2) にも貼ったリンク。しつこい!(笑)

ダイアー・ストレイツと言えば

ダイアー・ストレイツ関連の拙者の過去の note 投稿リンク、その一部について、以下に載せてしまうの巻。

以下、過去の note 投稿から 2本。上の方、今日の本 note 投稿テキストでも取り上げたダイアー・ストレイツ 1980年10月リリースのアルバム "Making Movies" に収録の "Skateaway" を彷彿とさせる、我が街の颯「爽」としたローラースケート少女の「爽」快で「爽」やかな三「爽」滑りを、誰か、見てくれよ(笑)。

Bonus tracks ♫ ♫ ♫

1) これにもピンク・フロイドは出てくるのだった。

2) 前項で妻子のことが出てくるけど(そもそもタイトル上の写真が!)、前章の最後でもリンクを貼ったダイアー・ストレイツ関連のこれ、

これには結婚前の妻とのことが出てくる(1985年4月に初めて会ったとさ)、そして ♫

3) それから 3年後、1988年3月に結婚したのだ。この投稿にはたくさんの名曲へのリンクが貼られているけれど、ここにはダイアー・ストレイツもピンク・フロイドも登場しないのだ。ダイアー・ストレイツはともかく、ピンク・フロイドは流石に、どう考えても結婚式・披露宴にはあまりにも似合わないのだ。でも今日のこの note 投稿の最後に、以下のリンクを貼るのだ。前章の最後と本章・前々項からの繋がりなのだ。これでいいのだ。そうバカボンのパパも言っているのだ ♫


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