アカバ(ヨルダン), 1983年9月23, 24日 〜 西に見えるイスラエル領エイラートに向かって
アカバ湾を横目に, 国境近くまで歩いてみたのは, 1983年9月23日。警官も兵隊も OK と言うので歩いてみたのだが, どうなったかは後で! .. なお, タイトル写真は同年9月25日朝, アカバをローカルバスで発ってペトラ遺跡に向かうその前に, 泊まっていた宿から撮ったアカバ湾。向こうに見えるのはイスラエル領エイラートの街。
1983年4月26日に日本を発って ソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ, そしてヨルダンの隣国シリアを旅するまで
ソ連・ヨーロッパ諸国, トルコのそれぞれの旅 note については, 以下 *1 シリア・アレッポ 旅 note の最後から3番目の章 1983年4月26日に日本を発ってから, 初めてのアラブの国 シリア を訪れる前までの日々 (ソ連, ヨーロッパ, トルコ) のところに, 各国各都市の旅 note リンクの説明など。シリア に関しては以下 *1, *2, *3 の旅 note にて。
*1 シリアが括弧付きながら「平和」だった時代 〜 最初の訪問地 アレッポ, 1983年9月5-10日
*2 パルミラ(シリア, 古代ローマ帝国の都市遺跡) 〜 1983年9月11日(ISによる破壊の32年前)
*3 シリア, ダマスカス 〜 括弧付きながら「平和」だった, 1983年9月12-19日
そして 1983年9月19日, シリア・アラブ共和国の首都アレッポ を発って, ヨルダン・ハシミテ王国の首都アンマンへ。
ヨルダンの首都アンマンにて 〜 郊外にあるパレスチナ難民キャンプを訪問
ヨルダン, アンマンで パレスチナ難民キャンプを訪ねて 〜 アンマン 1983年9月19-23日
そして 1983年9月23日, ヨルダンの首都アンマンを発って南下, アカバ湾に面した港湾都市アカバへ。
ヨルダン南端の港湾都市アカバ 〜 1983年9月23-24日, そして 25日にはペトラへ
アカバはアカバ湾に面し, 紅海を経てインド洋に通じる, ヨルダン南端の港湾都市。
1) 1983年9月23日, アカバからイスラエル領エイラートに向かって歩く
下掲の旅日記にある「師匠」や「ホリさん」については, 前章にリンクを付した前回のアンマン旅 note にて説明済み。「ホリさん」が向かった(筆者や「師匠」も後日向かうことになる)「Bridge」についても, 前回 note の エジプトのヴィザ取得したり, アカバ(ヨルダン)へのバス予約したり 〜 1983年9月22日 の章などで詳述(「Bridge」の向こうは, イスラエルが1967年以来, 国連安保理決議に違反しながら2021年の今に至るまでパレスチナ人の土地に対する軍事占領を続けている, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区)。「アル・クドゥス」は القُدس (al-Quds), エルサレムを意味するアラビア語。
オレと師匠は アカバ へ。
そして,
4時間強で アカバ に着く。
D というのはもちろん USドルのことではなく, ヨルダンの通貨ディナール。
アカバからは, アカバの西隣の都市, イスラエル領「エラート」(エイラート)の街が見える。
旅日記, 上掲の頁から, 続く下掲の頁へ。
イスラエルの街エラートが 向う側に見える。BEACH に出たりしながら, エラートの方向に 2人で歩いた。途中 POLICE も SOLDIER も OK と言うので 歩いていくと 国境ギリギリまで行ってしまった。監視所のようなところに兵士が 2人いて, 1人がやってきた。事情を説明すると, 次は上官のところへ連れていかれ, 彼は電話で連絡とってたりしたが, 結局ノープロブレムとなり, 銃を持った兵士を 1人同伴しての帰路となった。
最大限近づいて見た エラート の街は ビルがけっこう立ち並び, 都会に見えた。BEACH パラソルもカラフルにたくさん見え, 立派な海水浴場があると思われる。こちら側とはだいぶ違う。
ホテルのベランダから見る向う側, 夕やけ, 岩山, シナイ半島, エラートの夜景, きれいだった。こちら側の岩山の風景も壮大。
アカバの街は小さい。インド人, インドのシーク教徒, 東南アジア系の人がわりといるのはおもしろい。
ホテルの TV で アラビックの映画をやってたが, なんと下段に ヘブライ語 の字幕スーパーが出ている。ホテルの男は, ヘブライだ, イスラエリ・ラングウェッジだ, と言った。当然ここでも見られるであろう イスラエル の TV番組なのかもしれない。
奇妙なかんじだった。すぐそこは イスラエル(とにかく目に見えるのだ), そして逆側に少し行けば すぐ サウジアラビア だ。
最後の 2行, 思い出し記。
アカバ へ着く前, 兵士がやってきて 荷物検査があった。
(オレと師匠は何も見られず OK となった。)
2) アカバ, 1983年9月24日
旅日記の写真2枚。
師匠が再び泳ぎに行くのにつきあう。近くにドイツ人カップル2人。あと ボケーッと すわってる アラブ人2~3人。何とも さびしい BEACH だ。
向こうには イスラエル の街, 「エラート」(エイラート)。
向こうには エラートの街, にぎやかそうな BEACH。
ヨルダン側で, ウィンドサーフィンしてる男たち。
「ウィンドサーフィンしてる男たち」は, どう考えても欧米の何処かからのツーリストたちだっただろうけど。
夜も BEACH に出る。夕焼けの残照, 星空, エラート の夜景, きれいだった。
旅日記, 上掲の頁から続く下掲の頁へ。
ホテルの TV では相変わらず ベイルート情勢。
夕めしのめし屋 で見た TV のアニメは 日本製。アラビア語吹きかえだが, 「山中書店」といった日本語の文字がよく出てくる。出てこなくとも 登場人物の顔 etc 見れば すぐ 日本製とわかる。
アニメまで日本製なのであります。1本 どころじゃない, 日本製アニメはやたらと上映されてる。
1980年代前半期, その傾向は後半期になっても残っていたけれど, 日本はアニメのみならず, つまり日本経済, 日本の国全体が "イケイケどんどん" 全盛期だった。経済界の人間を含め驕り昂る日本人もいたし, 日本はエライなどと勘違いした優越感を抱く一般の日本人だって少なくなかった。
今や日本は "失われた20年" どころか "失われた30年”, 衰退の一途にすら見える。政治もカルチャーも内向きなままなんだろうし, 生まれ育った国なんだから少しは明るい展望を持ちたいけれど, 外国人に対する排外的な傾向も強まってるし, 正直, 日本の今も将来も, とても "明るい" なんて形容ができる状況にない。
話題, 脱線した。以下, 1983年9月のヨルダン, アカバでの旅日記に話を戻す。
アラブの街は 歩いてる女の数 メチャクチャ少ない。女が出てこない。私はこういう風習(?)はキライです。もっともアンマン, ダマスカス(アレッポも)などはもう都会, そういうことはない(しかしアンマンはまだ少ない)。
「風習」とここでは書いているけれど, アラブ世界において支配的な宗教であるイスラームの影響を強く受けていることは確か。街を歩く, 家の外を歩く女性が少ないことの理由の全てをイスラームで説明するのではないが, その影響は否定できない。アラブだけでなく, アラブではない民族が主体である国トルコにおいても, イスタンブールなどは違うが, その他の地域, 中央部とか, あるいはアンカラより東のイランとの国境に近い地域などになると, 街で女性を殆ど見かけなかったりする(もっとも筆者が直接知るトルコの実態は 1983年のそれなので, 38年の月日が経過した今どうなっているか分かってはいないのだが, 想像するに, それほど大きな変化は見られないのではないか)。
最近, アフガニスタン(自体はアラブではないが, 同国は今年8月以降, 再びイスラーム原理主義のターリバーンが政治権力を握る国になった)の情勢に絡むツイートのやり取りの中で, こういうツイートがあった。
人道や人権, 女性の社会進出の議論で勝ち目がなくなると, 西欧的価値の押し付けだと負け惜しみを言うひとは, 非西欧的価値とは何なのか言語化して説明してからにすべきですね.
同感。外の世界の価値観を "押し付ける" ことには当然のように反対するが, しかしでは女性の社会進出を妨げたり, 女性は男性保護者の同伴なしで街に出てはいけない, ヒジャブを被らないで街に出たら逮捕され監獄行きといった, 少なくとも一部地域や国に見られる, 宗教に影響を受けた「風習」, 慣習などの背景にある価値観を, そこに住む人たちが選択していることだという考えで済ませるような態度には全く共感できない。その「風習」, 慣習の中で生まれ育った女性たちがそれを自ら真の意味で "選択" しているなどということが言えるだろうか。要するに, "選択" のない社会, オプションのない世界で真の "選択" など有り得ないわけなのだから。
一つ念のため書いておくと, イスラームとかあるいはその他の宗教的な背景など全く無くとも(あえて持ち出すなら儒教とか有り得るけれど), 日本における女性の社会進出あるいは女性の持つ能力といったことに対する感情の上と制度の上での冷たさは(2021年の今でも女子の定員を抑制し女子の合格ラインを男子のそれよりも随分と高得点に設定している都立高校が少なからずある, などという驚愕の事実なんぞは一例), それはそれで世界において際立っているのではと思うけれど。
話, ヨルダンから日本にすっ飛んでしまったぞ!
3) アカバを発って, ペトラへ(1983年9月25日)
ペトラとは, ヨルダンにある, 世界的に有名な遺跡(紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて栄えた古代都市の遺跡)がある場所。
朝, ローカルバスで アカバ を発ち, ペトラへ。
D は既述の通り勿論, USドルのことではなくて, ヨルダンの通貨ディナール。ペトラで撮った超絶美しい遺跡の写真, ベドウィン家族のところに泊まった時の写真などは次回, ペトラ 旅 note にて。
アカバ, 1983年9月25日(写真4枚!)
アカバでは写真たったの4枚かよ, 「貧乏旅行」バックパッカーにはフィルムも貴重だから, 節約を心掛けてたのだ, フィルム, あの旅で使ってたコダクローム。
旅のあいだ使っていたカメラはこの歌に歌われているニコン(Nikon, ポール・サイモンはアメリカ式に "ナイコン" と発音している)ではなくコニカ(2003年以降はコニカミノルタになったが 2006年にカメラ関連事業より撤退, いいカメラだったけどなぁ!)だったけれど, フィルムはコダックだった。この歌で歌われている, コダックのカラーリバーサルフィルム, コダクローム ♫
脱線した。兎にも角にも, アカバで撮った写真は 4枚。
1) アカバの街にいて肉眼で見える, この写真で向こう側に写っている街は, ヨルダン領アカバの西隣に位置するイスラエル領エイラート。本 note 前章で掲載した当時の旅日記には「エラート」と書いていたが, ヘブライ語 אֵילַת, 英語 Eilat, 日本語では「エイラート」「エイラト」「エイラット」「エーラト」と様々にカタカナ表記されているもよう。
2)
3)
4) これは "残念な" 光景の写真。正直, これは酷いなぁと思って記録として撮った。エジプトのカイロでもこういう光景をわりと見かけたけれど, 建物の屋上などがゴミ捨て場の如き状態になってる。当時こういうのを見ると, ベドウィンが文字通り遊牧民として砂漠を渡り歩いたような時代だとプラスチック製品なんてまだ無かったし, その頃なら "もの" をそこいら辺に捨てても, 土に還るような "もの" ばかりだったから問題なかった, そんな過去の長い長い時代に当たり前にしてきたことの名残りみたいなものが, 近代産業社会の波がやってきても見られる, ということかな, なんてテキトーなことを単なる直観(というより直感かね, 笑)で考えたりしたことを今も記憶しているけれど, 果たして真相はどうなんだろう。
さてさて, 最後は
今日も今日とて音楽で締めくくり ♫
On the Border, Across the Borderline ♫
ヨルダンの港湾都市アカバの街から, 当時は ヨルダン が国として公式にはその存在を認めていなかった, つまり ヨルダン の国の政府が建前上は無いことにしていた国 イスラエル の港湾都市でリゾート地でもあるエイラートの街が見え, その Border に向かって歩いてみた, そして歩いてみて, その ヨルダン にとっては無いはずの国 イスラエル の街を, ヨルダン側から間近に見た, 眺めてみた 1983年9月23日。
あの日を思い出しながら, 単なるタイトルの Border だけ(かな?)のつながりで!
On the Border 〜 the title track from Eagles' 1974 album ♫
Across the Borderline 〜 from Ry Cooder's 1987 album "Get Rhythm"
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