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エルサレム旧市街にて 〜 1983年10月14日, 4月26日に日本を発ってから172日目

1983年4月26日に日本を発って 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り

1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後(そこまでの旅については以下 note *1 第3章にソ連・ヨーロッパ諸国旅リンク関連, 第2章にトルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの旅 note リンク), 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時においては16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区に入り, エルサレム旧市街がある東エルサレムに宿をとった(以下 note *2)。

筆者が パレスチナ/イスラエルを旅したその時代, 1982-83年頃がどんな時代だったか, とりわけパレスチナ人, パレスチナやイスラエル, レバノンに関わってどんな時代だったか, その一端, とはいえ重要かつ重大な一端に触れることになるのが, 以下の note *-1 にある 1982年イスラエルのレバノン侵攻, そして同年9月にベイルートにおいてイスラエル軍が包囲するパレスチナ難民キャンプ(サブラ・シャティーラ)で起きたパレスチナ難民等虐殺事件(因みに34年後の2016年にノーベル文学賞を受賞することになるユダヤ系アメリカ人の "セレブリティ", アメリカ合州国の紛れもないメインストリームのロック・ミュージシャンである ボブ・ディラン は, その直後に 恥知らずなイスラエル支持ソング を書いて 翌1983年の彼の公式アルバム "Infidels", その名も「異教徒たち」に収録している)。 

話を戻して, 1983年秋の パレスチナ/イスラエル の旅の3日目は, 西岸地区にあるパレスチナの街, キリスト生誕の地と信じられているベツレヘムを訪問し(note *3), 4-5日目にはジェリコ(エリコ)そしてマサダ死海に行った(note *4)。6日目は, 東エルサレムエルサレム旧市街を歩き, 西エルサレムでは「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム)を訪ね, とエルサレムの「東西」巡り(note *5)。7日目, 1983年10月4日は, エルサレムをひとまず発って「48イスラエル」の都市ハイファに行き, 今も強く印象に残るパレスチナ人の老人に出会った日(note *6)。8日目, 10月5日は, ハイファから日帰りでナザレへの旅をし(note *7), ナザレから「ハイファに戻って」(note *8), そして翌日, ハイファから向かったのはテルアヴィヴ(note *9, *10; 10月6-9日)。テルアヴィヴに3泊4日滞在した後は, エルサレムに戻って旧市街を歩いたり近郊のキブツに出かけたり(note *11,10月9-10日)。その後, 10月11日には エルサレムから日帰りの旅で西岸地区の街 ヘブロンへ(note *12)。そして 1983年10月12-13日も西岸地区内の街に日帰りの旅をし, それぞれビルゼイトにある大学, ナブルスにある大学を訪問して, 学生たちと様々なことを話した(note *13)。

本章, 以下は 関連 note リンク。

*−1 ノーベル賞の季節になると思い出す, 2016年ノーベル文学賞受賞のボブ・ディラン。ディランの 恥知らずなイスラエル支持ソング は, 1982年イスラエルのレバノン侵攻と同年9月のレバノンにおけるイスラエル同盟者であったキリスト教右派民兵たちによるパレスチナ難民等虐殺事件(ベイルート, イスラエル軍が包囲したサブラ・シャティーラ難民キャンプにて)の直後に書かれ, 1983年リリースのアルバム "Infidels"(「異教徒たち」)に収録。

なお, この一文は(文字通り「この一文」!), 今も胸くそがわるくなる ボブ・ディラン 恥知らずな 1983年リリースの イスラエル支持ソング についての上掲 note と, 以下の 1983年の自分の旅 note との間に距離を置くための一文なり。

*1 再びの アンマン(ヨルダン), 1983年9月26・27日 〜  第3章で 1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国, その前の第2章は, ギリシャ・アテネからトルコ・イスタンブールに移動した後の ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン

*2 パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る

*3 ベツレヘム(パレスチナ) 〜 1983年9月30日

*4 ジェリコ, マサダ死海; 1983年10月1, 2日 〜 そして2021年のいま白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル

*5 エルサレム旧市街と「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日

*6 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月4日

*7 ナザレ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月5日

*8 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)に戻って 〜 1983年10月5日

*9 テルアヴィヴ/48イスラエル 〜 ディアスポラ博物館を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い(1983年10月6日から翌7日)

*10 テルアヴィヴ/48イスラエル, 1983年10月7-9日 〜 ガザから来ていたパレスチナ人一家, そして テルアヴィヴのユダヤ人, パレスチナ人

*11 エルサレムに戻って, 1983年10月9-10日 〜 見たり聞いたり考えたり思い出したりキブツに行ったり.. 

*12 ヘブロン, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月11日, 4月26日に日本を発ってから169日目

*13 被占領地パレスチナの街にて, パレスチナの大学を訪ねた; ビルゼイト と ナブルス 〜 1983年10月12, 13日

ふーっ, と(自分が!)一息ついてから次章へ。

パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 エルサレム旧市街について

前章にもリンクを付した以下 note 投稿の中の「ハイファに戻って」旅 note に入る前の第2章が パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」(その前の第1章は「48イスラエル」, 「47イギリス委任統治領パレスチナ」)。

さて, エルサレム旧市街がある東エルサレムは, 他のヨルダン川西岸地区の街と同様, イスラエルが1967年6月以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反しながら(2021年の今も)占領し続けている場所。イスラエルは既に東エルサレムを西エルサレムに一方的に併合し, かつその統一エルサレムをイスラエルの首都であると重ねて一方的に主張しているが, これを容認した国はトランプ政権時代のアメリカ合州国を含むごく僅かである。要するに国際社会は認めていない。

イスラエル「建国」(1948年)の前年, 1947年の不当な内容の国連パレスチナ分割案(どこがどう不当だったのかについては, 上掲リンク先 note 第2章 パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」, にて)においてさえ, 国連を施政権者として信託統治とするということになっていた, アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教, うち後二者は仏教とともに世界三大宗教に数えられる)の聖地があるエルサレム市。うち西エルサレムはイスラエル「建国」(1948年)の際の第一次中東戦争の結果, イスラエルが占領・統治するようになり, 一方で東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区は, その第一次中東戦争終結後, イスラエルが同地区をも占領する1967年6月まではヨルダンが占領, 統治・併合していた(ただし国際社会の殆どはこれを承認せず)。

それ以前の1918年から1948年までは, エルサレム, ヨルダン川西岸地区やガザ地区, そして1948年イスラエル「建国」以降のイスラエル領などを含むパレスチナ全域を, イギリスが占領・統治(1920年からは「イギリス委任統治領パレスチナ」)。この歴史的「パレスチナ」地域, 更にその前に遡ると16世紀以降はオスマン帝国の支配下にあったわけで, 要するに同帝国が第一次世界大戦で敗戦国の一つとなり, 大英帝国, イギリスが戦勝国の一つとなったという時代背景がある。因みにパレスチナというこの地域の呼び名自体は, 紀元前10世紀以前の遥か古(いにしえ)の時代にこの地に住んでいたペリシテ人の名が由来と考えられており, 既に古代ギリシャの作家たちが「パレスチナ」の名を使っていた由。というわけで, パレスチナの名称自体は歴史が非常に古い。ただ, いわゆる「パレスチナ問題」の歴史はそう古いものではない。せいぜい19世紀末以降に動き出したものであって, 聖書の時代に遡るような幾世紀にもわたる民族間の争いや異なる宗教の信徒の間の争いなどでは全くなく, 要するに, 近代の, しかも「欧米列強」(特にイギリス, そして1948年のイスラエル「建国」後はとりわけアメリカ合州国)に大いに責任がある問題である(詳しくは 上掲リンク先 note 第2章 パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」)。

エルサレム旧市街にて(1983年10月14日) 〜 写真 8枚

さてさて, 長い長い前説はこのくらいにして, 1983年10月14日, パレスチナ/イスラエルの領域に入って 17日目のエルサレム旧市街で撮った写真を, 以下に掲載。

1) エルサレム旧市街を歩くパレスチナ人の老夫婦。右側背後に写っているのはクリスチャンだったかも(エルサレムに住むクリスチャンにはパレスチナ人もいるし, アルメニア人やギリシャ人などもいる)。

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2) 旧市街を歩くパレスチナ人の婦人たち。

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3) 旧市街を歩くパレスチナ人の婦人たちと, 右端はパレスチナ人の男性だろうか, それともイスラエルのユダヤ人の男性だろうか(わりと判別がつかないこともあるのだ)。

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4) 当時の旅日記(本 note 次章)に登場する, エルサレム旧市街に 1930年代から住むギリシャ人。気さくな人だった。この時点で既に 73歳。あれから38年, 今も健在だったら素晴らしいなぁ。111歳なら, 今の「人類」(!), 絶対に絶対にあり得ないとも言えない話だね!

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5) パレスチナ人の婦人たちが野菜や果物などを売っている。

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6) 同上。ただ, 今日載せる写真の中では, 以下の写真だけスライド用のフィルムによる撮影だったような気がする。あの時の旅に日本から持っていったカメラは「ナイコン」(ニコン)ではなくてコニカだったけれど, フィルムはコダクロームだった。

話が飛んだ ♫ 

1983年10月14日のエルサレム旧市街に, 話を戻します。

画像6

7) パレスチナ人のおばあさんや子供たち(孫たちだろうか)。夕刻過ぎ, 辺りが暗くなってきた頃。

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8) 上掲の写真と同じ場所。パレスチナ人家族(孫の遊び友達もいるかな)の前を歩く, イスラエルのユダヤ人たち。

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さてさて, 

次章は 当時の旅日記。

1983年10月14日の エルサレム旧市街, 見聞録

旅日記 1/5

上の6行分は, 前回の旅 note で取り上げていた話。

画像9

旅日記 2/5

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このギリシャ人は, 前章に掲載した写真 4) の人。

旅日記 3/5

画像11

旅日記 4/5

気さくなギリシャ人のおじさん(おじいさん)の個人の体験に基づく話の中には, その語り口に対して聞いてるこちら側として首肯しかねるような部分も含まれていたけれど, 言えることは, 旅日記に書いた通り, 

ものごとは そう単純でない。理屈通りには, 世の中なってないのです。

とこれは, いかにも人がよい感じだったギリシャ人のおじさん(おじいさん)の貴重な話に耳を傾けた後の, 筆者の呟き。

(以下, 個人情報を黒塗りならぬ青塗り)

*「フセイン」とは, ギリシャ人のおじいさんの話に登場した, 当時のヨルダン国王フセイン1世・ビン・タラールのこと。

画像13

旅日記 5/5

下の方に書いてある通り, 翌日つまり 1983年10月15日(ナブルスの大学を再訪)の旅日記は, 実際にはガザ地区に移動してから, 10月16日の夜にガザの宿で, 当日分と共にまとめて書いていたようで。まぁこれは流石にそこまで細かいことを記憶しているのではなくて, この日記にそう書いてあるから, そういうことだった, てなわけだけど! 

画像13

最後の6行は, 1983年10月15日の「見聞」の冒頭。最後の最後の2行に書いてあることは, バックパック担いで旅していて一度ならず経験するようなことだった。ギリシャ, アテネに長居してた時なんか, いつも寝る時は正真正銘の「スッポンポン」になるお姉さんバックパッカーが相部屋だったし(それでいて物静かで且つ感じいい人だった; 国は何処だったかな, ヨーロッパの何処かだったけど, 歳は実際やや上だったはず), アテネからトルコのイスタンブールに2泊3日の列車旅をする時など, 

こんなこともあった。

さてさて, 今日も今日とて, note の締めは, 音楽で ♫

Every Picture Tells a Story (Rod Stewart) 〜 歌詞和訳

というわけで.. 以下 note *1 のタイトル写真に写っているのは 1983年6月1日, 当時の「分断国家」ドイツ, 「ベルリンの壁」があって西ベルリンが陸の孤島化していた時代, 「東ドイツ」(ドイツ民主共和国, 「民主」というのは殆どギャグだけど)領「東ベルリン」側にあったブランデンブルク門の前で記念写真に収まった筆者, 911の誕生日をシリアのパルミラの遺跡で迎える(note *2, *3, *4)よりも3ヶ月と10日前のことで, この時はまだ22歳でありました。

*1

*2-4

というわけで(連発), 今日の締めは, 上掲 note *1 投稿時に歌詞を和訳した, この歌を ♫

Every Picture Tells a Story 〜 a title track from the third album by Rod Stewart, released on May 28, 1971 ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.8 加筆/削除/編集)。

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しばらくの間 おれってダメな奴かもって思ってた
鏡の前に立って
何百回と髪をとかしても(*1)
結局は代わり映えしない俺がそこにいるだけ

親父がおれに言ったのさ、「息子よ、世の中を見てくるがいい
家を出て行ったって咎めたりしない
だけど覚えておけ、現を抜かすんじゃないぞ
お前の金を掠め取るような女にはな」(*2)
で、おれは出かけたってわけさ

パリは身を隠せる場所だった
周りに馴染めないって思ったらね
だけどフランスの警察は平和をくれなかったのさ
連中はおれのことを汚らしい奴だって言うんだ
セーヌの左岸に降りて物思いに耽ってて(*3)
押し寄せてきた群衆にノックアウトされたら
平和的な暴動を扇動したって罪で逮捕されちまった
おれはその時ほんとはお茶一杯飲みたかっただけだぜ
なのに責任取らされたってわけさ、ったく
その後も旅を続けたよ

ローマに行ったけど何か物足りなかった
若い奴が生きてくための何かがね
おれの体は悪臭を放ってたけどそのまんま、憂鬱だった(*4)
まさに運も尽きて落ち目って時にね
ほんとに破れかぶれ、やけになって
観光客用の見せ物みたいになってた
それで思ったよ、ここから出なくちゃってね
バチカンに行ったって認められるわけないし
そんな気もなかったさ、あるわけない

東に向かって出かけたぜ、聞いてくれよ
北京のフェリーに乗ったら楽しい気分になったんだ(*5)
こっちに戻る船の中のことさ
切れ長の目の女と恋に落ちたってわけ
東洋の月明かりに感謝しなくちゃね
上海のリルは決してピルを使わない
ピルなんて自然じゃないわよって言うんだ
で、おれを甲板に連れて行って首に歯を当ててきたよ(*6)
なんてこった、彼女と出会えたなんて上出来だよ
ほんとさ、最高の気分だったよ
ちょっと待ってくれ

おれはいま固く信じてるよ、結局大事なのは自分だってことさ
マジで思ったんだ、おれはほんとに完璧だってね
人間、どんだけおかしくなれるのかな
おれが今まで知った女たちには靴紐一つ結ばせなかったよ(*7)
ああいう女といると自由な気分でいられないんだ(*8)
だけどあの切れ長の目の女には心底やられたよ(*9)
彼女に出会ったことは神にでも感謝しなくちゃな
おれが伝えられる彼らの言葉の中に(*10)
旅してる最中のあんたに役立つものがあるとしても(*11)
彼ら、つまりディケンズやシェリーやキーツの言葉は使えないな(*12)
そんなの散々言われてきて手垢まみれだろうよ
どんな悪い状況でも最善を尽くす、でもって笑い飛ばすんだな
とにかくこんなとこまで来なくてもいいよ

覚えおくことさ、どう見えるかで何が起きたのか分かるんだ、だろ?
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どんな場面にも思い出があるのさ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
どの写真にも物語があるんだ
百聞は一見にしかずって言うよな
百聞は一見にしかずってね
百聞は一見にしかずって ...

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注釈 *1~12 については上掲 note *1 にて ♫

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