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ヴァチカンと共に, ローマ・イタリア 1983年7月 part II 〜 写真11枚

タイトル上の写真はコロッセオ。写ってる人間たちの小ささを想えば, やはりこれはかなり巨大。ローマの part I(トレヴィの泉, スペイン階段, スイカ売り, トランプおじさん, イカしたカップルなど)は以下 *3, その前のヴェネツィアとフィレンツェは *1, *2, 彼方(あちら)から見たら「極東」の島国を 1983年4月26日に出て西欧の一角を占めるイタリア半島に入る前までに関しては 本 note の最終章。

*3 ローマ part I (写真 13枚)

*1 ヴェネツィア(写真 7枚)

*2 フィレンツェ(写真 6枚)

ヴァチカン市国 〜 写真 3枚

ここでは, 今日 2021年7月6日から数えてちょうど 38年前, 1983年7月6日に ヴァチカン市国 で撮った写真を載せます, 下の方でちゃんと(笑)。

日本では ヴァチカン とか バチカン他, 表記は色々。ヴァチカン市国とカトリックの総本山の総称が ヴァチカン, ということらしい。ヴァチカン市国 は1929年に独立国家となった「国家」で, その領域はイタリアのローマ市内。何とも妙な, 少なくとも信仰者でない立場からは奇妙にも映る国。

現在(2013年3月13日以降)のローマ教皇, 第266代ローマ教皇はこの人, イタリア系アルゼンチン人, フランシスコ, いわゆる「本名」で言うと, ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio, 1936年12月17日生まれ)。

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今般のコロナ禍のとりわけ初期, 世界各地のキリスト教会(プロテスタントが多いアメリカ合州国で目立ったような気がするが, ある意味当然ながらカトリックの教会でもそれはあった), またイスラームのモスクでの集団礼拝において, いくら科学者が「密はだめ」と理由を添えて厳重注意をしても文字通り「集団」を作ってしまい, 感染拡大の大きな要因の一つになってしまったのだった(因みに下の写真, 右側の人 Ali Khamenei は, ある意味ヴァチカンの「お仲間」,  21世紀の今も世界に数多[!!!!!!!!..]存在する「神政国家」の一つ, 現在のイラン・イスラム共和国の, イスラム法学者でなくては「なれない」同国の「最高指導者」)。

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さてさて, 現在のフランシスコ(上の写真の左側の人ですね)の先代, ベネディクト16世(ドイツ人, ヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー, Joseph Alois Ratzinger; 1927年4月16日生まれ, 2005年4月19日より第265代ローマ教皇, 2013年2月28日に教皇として719年ぶりに自由意思による退位, 以降は「名誉教皇」)を挟んで, 

38年前, 筆者が ヴァチカン市国 を訪れた1983年当時のローマ教皇はこの人, ヨハネ・パウロ2世(カロル・ユゼフ・ヴォイティワ, Karol Józef Wojtyła; 1920年5月18日生まれ, 2005年4月2日他界)だった。ポーランド出身の第264代ローマ教皇で, 在位は1978年10月16日から, 亡くなった日, 2005年4月2日まで。2021年の今もそこはおそらくは似たような感じかなと思うのだけれど, 当時, この人のプロマイド(ポストカードもあったかな)のようなものが随分と売られていた。妙なことを記憶しているもので, ヨハネ・パウロ2世のプロマイドなどが陳列されたスタンドの前に立ってそれを興味本位に眺めていたら, たまたまそのとき直ぐ横になんというかキュートな感じのヨーロッパの何処かの国の人だったのかアメリカ人だったのか分からないけれど(当時の筆者と同年齢くらいの)女性が立っていて, ニッコリ, 隣りの筆者にも微笑みを向けながら "Oh, Pope!" と声を出していた。厳密に言うとこの瞬間が奇妙な記憶というものかもしれないけれど, 一瞬の間, なんか声かけてみようかなと思ったことを憶えている。ヨハネ・パウロ2世に対してでなく, そのキュートな女性に(笑)。何はともあれ, ヨハネ・パウロ2世は, 世界的にかなり人気がある教皇(法王)だったと思う。 

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信仰者でない人間が「教皇」の写真など載せたりして, だんだん居心地わるくなってきたので(まぁ冗談, 大したことでもないんだけど, 次の歌への前振り, 笑), ちょっと 1曲聴いて, 気分転換しよう ♫

聖ヴィンセント が歌う「救世主」〜  "Savior" by St. Vincent

Savior 〜 from St. Vincent's fifth studio album "Masseduction", released on October 13, 2017

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。

... ♫ ♫ ♫ .....

そろそろ, 

旅日記 殴り書きの写しと, 1983年7月6日に ヴァチカン市国 で撮った写真を載せねば(旅日記 殴り書きの写し2枚の下に, 写真3枚)。

なお, 「サンピエトロ」(サン・ピエトロ)広場とは, ローマ教皇の就任ミサが「執り行なわれ」たりする広場のことです。

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「フォロ・ロマーノ」とかは, 次章以降。

日記を見返すと, 流石に, 流石の ミケランジェロ の「最後の審判」.. ヴァチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれた, ルネサンスの時代の巨人, ミケランジェロの「最後の審判」(1541年完成)には圧倒されたもよう。あの凄さは, 見る者, 観る者の信仰の有無にかかわらず, 鑑賞者の心というか精神というか, そこを揺さぶり, 確実に「心を打つ」ものがあるようで。あれはもう, 芸術の力, ということだと思うけれど。筆者のような, 信仰者でない人間の立場での鑑賞者にとってはそういうことで, 描いた側には信仰による力(これはもちろん「神」なるものの力ではなく, 信仰者の信仰する心とか精神のエネルギーの力, アメリカ合州国のゴスペルのシンガーやクワイアのヴォーカルが持つ力みたいなもので)によるところもあったという可能性は決して否定しないけれど。

ヴァチカン市国 で当日撮った写真は, 以下の 3枚だけ。

1)

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3)

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さてさて, いざ, 

フォロ・ロマーノへ。

ローマ, フォロ・ロマーノ(古代ローマの遺跡群)など 〜 旅日記, 殴り書きメモ(1983年7月6日, 7日)

以下, この 殴り歌 の下に .. あしたはどっちだ ♫

1983年7月6日から7日にかけての旅日記 殴り書きより(前章に載せた 7月6日の冒頭部分は前章「ヴァチカン市国」関連なのでカット, 載せた1枚目の上3行はその「ヴァチカン市国」の終盤), 5枚分。

旅日記 殴り書き, その 1) ... 泊まったローマの宿はパスポートをフロントに預けるようなシステムだったのか(普通そうだっけ? 笑), かなり「パスポート」を気にしてる様子(笑)。

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旅日記 殴り書き, その 2) ... この写真はどうなったのか, 撮れてた写真をいま見ても, いまいち分からない。大丈夫だった, ということかもしれない。それと, ほんと, 「パスポート」気にしてる(笑)。 

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旅日記 殴り書き, その 3) ... 2) から 3) にかけて, 要するにナンパに誘われたようなのだが, まぁ行かなくてよかっただろうとは思う(笑)。さらに可笑しいことに, この自称「マドリッドから来た男」(いや実際そうだったのかもしれないが), 旅日記 殴り書き, その 5) にも登場する。なんとも笑ってしまう, 愉快な男だった(くらいのことだったのかもしれない)。

それと, 「駅前のスイカ売り」(このスイカ売りの写真は前回のローマ part I の note に掲載してる)の近くで声をかけてきた「おっさん」の日本語には, 単純に笑えた。自分で努力して覚えたのか, あるいは日本人旅行者とかから安直に教わっただけなのか。後者かなぁ。 

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旅日記 殴り書き, その 4) ... ローマの後, ナポリに行き, ポンペイの遺跡なども見物した後で, ナポリからブリンディジに下り, イタリアからギリシャに渡ってギリシャでは 1ヶ月過ごし, その次に行ったのが中東の最初の訪問国トルコだったのだが, 旅してるうちにトルコの旅情報など, けっこう入ってきていたようで。

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旅日記 殴り書き, その 5) ... あの旅では, とりわけ中東・アジア諸国ではということになるかもしれないが, 「得体知れず」の食べ物はかなり食べた。でもこの時は食べなかったもよう, 「パンケーキのようなもの」。そんなもん, 食べてみればよかった。水の飲み過ぎで腹の調子でもわるかったのかもしれない。

また出てくる「パスポート」。よほど忘れることを気にしてたか, 可笑しい。それと, そうだった, 水は日本ならかなりの昔から国内ほとんど何処でも安全に飲めるが, 海外の多くの国ではなかなかそうともいかない。少なくとも当時のイタリアでは要注意だったのかもしれない。いや, それもあるにしても, とにかく猛暑の夏で(今世紀に入ってからの日本の夏の猛暑もかなり酷いけれど), 少し気になるくらいに水分を摂り過ぎていた, そちらの事情の方が大きかったのではと思う。   

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「署名」(ハンドマイク 情宣付)の件は, 前回 note, ローマ part I に写真と共に既出。「きのうのスペイン人, きのう会ったとこで 女に声かけてた」とは, 旅日記 殴り書き, 2) から 3) にかけて登場する「マドリッドから来た」"色男" (本当に色男だったかどうかは忘れたけれど, 笑)。

ローマ, フォロ・ロマーノ(古代ローマの遺跡群)など 〜 写真 8枚

以下(ウィキペディアのリンクと引用の下)に載せる写真は, フォロ・ロマーノ, コロッセオ, カラカラ浴場で撮ったもので, 全て撮影は 1983年7月6日。

フォロ・ロマーノ(伊:Foro Romano)は、ローマにある古代ローマ時代の遺跡。観光地として有名である。フォロ・ロマーノは、ラテン語の古名フォルム・ロマヌム(Forum Romanum)のイタリア語読みである。
紀元前6世紀頃からローマ帝国がテトラルキアを採用する293年にかけて、国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/テトラルキア によれば, 

テトラルキア(古代ギリシア語: τετραρχία, tetrarkhía, ラテン語: tetrarchia, 英語:tetrarchy, 「4名の支配」の意)は、古代ローマにおける政治体制の一つで、帝政ローマ後期に即位した皇帝ディオクレティアヌスが西暦293年に行ったのが始まりとなる。本来は寡頭制において4名による支配を行う場合を指すが、単に「テトラルキア」と呼ぶ場合はディオクレティアヌスに始まる分担統治を意味する。 

以下は再び「フォロ・ロマーノ」(ウィキペディア)より。

フォロ・ロマーノの発掘は、19世紀から本格的に行われるようになったが、帝政時代初期までに開発が繰り返されており、遺構も様々な時代のものが混在しているので、発掘調査は難しい。現在の遺跡は、大部分が帝政時代以降のものである。

写真 1) ... この "83.7.5" は手動の操作による「手違い」, 要するに間違い, 単純ミスに違いない。当時の自分の旅日記の記述からしても, 実際には 2) 以降同様, 1983年7月6日に撮ったものだと思う。

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写真 2)

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写真 3)

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写真 4) ... 残念, この写真はだいぶ汚れてしまった。しゃーないね, 38年経過。

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写真 5) ... 写真(ウィキペディアのリンクと引用の下)は, 今日の note タイトル上に使ったもの。コロッセオ。

コロッセウム(ラテン語: Colosseum, イタリア語: Colosseo コロッセオ)は、ローマ帝政期の西暦80年に、ウェスパシアヌス帝とティトゥス帝によって造られた円形闘技場。英語で競技場を指す colosseum や、コロシアムの語源ともなっている。建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場(ラテン語: Amphitheatrum Flavium)。現在ではイタリアの首都ローマを代表する観光地である。

本 note 冒頭でも書いた通り, 写ってる人間たちの小ささを想えば, やはりこれはかなり巨大。

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写真 6) ... 人間たちがほんと, ちっこい。勿論, これを撮っていた筆者も, ちっこい人間のひとり。

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写真 7) ... 当時の旅日記の記述からすると, ここ(カラカラ浴場)で開催されるオペラの公演の準備風景の写真(写真は以下の複数のリンクや引用の下)。

カラカラ浴場(カラカラよくじょう、ラテン語: Thermae Caracallae,イタリア語: Terme di Caracalla)は、セプティミウス・セウェルス帝の計画を引き継ぎ、ローマ帝国第22代皇帝カラカラがローマ市街の南端付近に造営したローマ浴場。当時はアントニヌス浴場(ラテン語: Thermae Antoninianae)とも呼ばれていた。日本語訳でカラカッラ浴場と表記されることもある。

古(いにしえ)の時代のここ「カラカラ浴場」は, 上のリンク先ウィキペディアや下のリンクにも記述があるが(特に下, 世界遺産オンラインガイド), 浴場の他に体育室や図書室, 散策できる庭園などもあって, 要するに一大レジャーランド, そこまで言わなくとも, 一大「社交場」, 巨大な「憩いの場」だった, という感じ(後年だんだん「退廃的」になっていったようだけれども)。

公共浴場(テルメ)は、心身をリフレッ シュするだけでなく、社交場としても人気がありました。皇帝や元老院議員も姿を見せ、市民と同じ浴室で過ごしたのです。

(古代ローマの公衆浴場は, バルネア Balnea とか テルマエ Thermae とか呼ばれていたもので, 近年日本で漫画のタイトルになり映画版も話題となった「テルマエ・ロマエ」は, ローマの浴場という意味のラテン語。) 

さてさて, 

1983年7月6日にローマの「カラカラ浴場」で撮った写真は, 以下の 2枚だけ。当時「カラカラ浴場」で行なわれることになっていたオペラ公演の準備中風景(オペラは何日の何時から開演だったのかな, 観れたらよかった)。

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写真 8) ... ここで演じられたオペラ, 古代ローマの雰囲気も味わえて, 相当に見応え, 観応え, 聴き応えがあったに違いない。

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この後(後日だったんだと思うが, ん?この日だったんだろうか, 今のところ手掛かりは見つけていない)ここ「カラカラ浴場」で演じられたオペラ, 残念ながら観てはいない, だから.. 次章へ ♫

うたかたのオペラ 〜 加藤和彦, 1980年9月25日リリース ♫

前章の最後に載せた写真2枚, あれは当時の旅日記によれば古代ローマの遺跡の一つである「カラカラ浴場」で開催されることになっていた オペラ の公演の準備風景, しかし筆者はその後, 其処での オペラ そのものは観ていない, そこで(漢字を当てると「其処で」が出てくるけど, 笑)今日ここで, つまり此処で聴くのは, 加藤和彦が1980年にリリースしたアルバム, 

うたかたのオペラ, L'OPÉRA FRAGILE 〜 加藤和彦, 1980年9月25日リリース

録音は, 西ベルリン(1980年7-8月)

これは, 西ベルリン(1983年5月)

ついでの, 東ベルリン(1983年6月)

ではでは, ちゃんと, 聴こう ♫

作曲と編曲は全て, 加藤和彦(1947年3月21日生まれ, 2009年10月16日他界)

作詞は全て, 安井かずみ(1939年1月12日生まれ, 1994年3月17日他界)

以下の YouTube クリップには(1988)とあるけれど, アルバム・LP(LPでは以下10曲のうち 5曲ずつが A面, B面に分かれる)がリリースされたのは 1988年ではなくて, 1980年。

00:00 L'Opera Fragile うたかたのオペラ
04:50 Rumba American ルムバ・アメリカン
08:46 Paris, Yesterday パリはもう誰も愛さない 
11:40 Radio Cabaret ラジオ・キヤバレー
15:55 Lady In A Silken Shirt 絹のシャツを着た女
20:20 S-Bahn Sバーン
24:49 Cafe Bristol キャフェ・ブリストル
28:45 Doctor Kessler's Busy Weekend ケスラー博士の忙しい週末
33:07 Sophie's Prelude ソフィーのプレリュード 
40:57 Fifty Years Theme 50年目の旋律

さてさて, 次も音楽で ♫

Retro Italian Swing Medley 〜 Hetty & the Jazzato Band ♫

ローマ・イタリア 1983年7月 part II の note 最後から2番目の章は, イギリス人とイタリア人のメンバーによるバンド, Hetty & the Jazzato Band による, レトロなイタリアのスウィング・メドレー ♫

さてさて(口癖になってきてしまった) ♫

1983年4月26日に日本を発って, イタリア に辿り着くまでの日々

イタリア(ヴェネツィア, フィレンツェ, ローマ part I それぞれについては今日のこの note の冒頭「前説」部分にリンク)は最終目的地だったわけではないけれど, とりあえずのどこでもドアならぬ「いつでも振り返り」用。

以下リンク *1 の note 第4章 1983年4月26日横浜港発のユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行, ここまでの振り返り に出発前, 出発, ソ連, フィンランド, スウェーデン, ノルウェー, デンマーク, ドイツ(「ベルリンの壁」崩壊前で西ドイツ!), そしてアメリカ合州国・イギリス・フランス占領下の西ベルリン, 東ドイツの首都だった東ベルリン, ベルリン・ケルン経由でフランス, そしてスイス, 再びの西ドイツ, それらの各 note へのリンクがあり,

その後に行ったオーストリアはその note 第1章,

その後, オーストリアの首都ウィーンから行った当時のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都ベオグラードについては以下リンク *2 の note にて,

そしてベオグラードから戻った再びのウィーンは *3 の note にて。その「2度目の滞在」のオーストリア・ウィーンを後にして向かったのが, イタリア。

*1 音楽の都ウィーンにて, ギターを教える日本人とドイツ語教師のオーストリア人のカップルのお世話に 〜 1983年6月22日&..

*2 ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都だった, ベオグラード 〜 1983年6月, 3泊4日

*3 「音楽の都」オーストリア・ウィーン, 2度目の滞在 〜 1983年6月28-30日


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