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三つの君が代・誕生 日本国歌「君が代」物語


明治21年(1888)に国歌として公表された「君が代」

君が代は

千代に八千代に

さざれ石の

巌(いわお)となりて

苔(こけ)のむすまで

世界の国歌の中で一番短い詩であると同時に、日本の国歌は世界で一番古い詩を使っています。

では、他の国の国歌の歌詞はどれくらいの歴史があるか、幾つか例を挙げますと

世界最古の国旗(1119年?)を持つデンマークの国歌は、19世紀前半のデンマーク人の詩人アダム・エーレンスレーアーの歌で1844年から。

イギリスの国歌は1745年から歌われたと記録にあり

十三世紀からの長い歴史を持つタイ王朝の国歌は、なんと1939年に公募で選ばれたものだったりします。

いやいや、こうして見ても1000年以上前の歌を使っているというのが、いかに凄いかが分かりますね。

また、千年以上前の古今和歌集の歌が使われているということは、近代でもその歌に共感できる感情などが、今と昔も変わらないことを意味していたりもします。

これも世界一古い歴史を持つ国ならではのことだと思います。

では、「君が代」がどうして日本の国歌の歌詞に採用されたかを凄~く簡単に説明しますと

君が代の原歌は『古今和歌集』の賀歌(がのうた)。

賀歌とは40、50、60歳と一定の年齢に達した人へのお祝いの歌。

これが鎌倉期・室町期に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、

江戸時代には隆達節(江戸時代の小歌)の巻頭に載り、おめでたい歌として

小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付

等にある時は、そのままの形で、またあるときは変形されて使われていました。

ですので、おめでたいということで、上は大名から下は一般市民まで、一家の家長や祝言をあげる祝いの席で歌われていました。

この例からも単純に

君=天皇

ではないことが分かると思います。

では、君が代がどうして国家になったかというと、明治2年(1869)に薩摩軍楽隊の隊員がイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンから

「国歌あるいは儀礼音楽を設けないとダメデスよ」

といわれたのが始まりでした。

当時、日本には国歌の概念がなく、軍楽隊の隊員達から相談を受けた、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が

「日本人ならだいじょんしっとる君が代がよかじゃなかか」

と薩摩琵琶歌の「蓬莱山」の文句からこの歌詞を選びました。

そして、この歌詞に、薩摩藩の軍楽隊の指導もしていたフェントンが曲をつけてくれたのが、国歌「君が代」の始まりとなります。

ところが!

彼は日本語が分からないので、詩の意味や歌詞の区切りを全く考えずに作曲して、とっても歌いにくい歌が完成させてくれてしまいました。

で、まぁ当然の如く不評でしたw


それでも『海軍軍楽隊・沿革史』に

「明治5年1月、海軍兵学寮の式典に明治天皇行幸。

「君が代」を演奏。以後礼式曲として必ず奏楽」

と書かれているように、公式の場で度々演奏されたようで

また、明治10年8月に外務省が

「御省楽隊ニ用ル日本国歌(ナショナルエ-ヤ)ノ譜」

を送付請求し海軍省が楽譜を送ったことからも、他省庁でもこの歌を正式な国歌として認めていたようです。

でも、やっぱり不評は不評w

特に演奏する軍楽隊隊員達から大不評、不満だったようです。

明治9年に海軍軍楽長・中村祐庸(すけつね)が宮内庁に

「この歌は日本人の声に合わず、聞いていても何の音楽かよくわからないし、これじゃあ天皇を崇敬する儀礼の主意を失するから直すべし、でもフェントン氏は帰国の期が近く校正の暇がないから、改訂委員会の手で「君が代」を直すべし」

と上申書を提出し、この上申は各方面に好意をもって迎えられたのですが、

当時はまだ世情が安定せず、翌年には西南戦争が起きるなどし「君が代」改定は懸案事項としておかれたまま進展しませんでした。

そして明治13年、ようやく「君が代」の改定が国歌改定案として実施されることになり、1月に海軍省から宮内庁に依頼がだされ

依頼を受けた宮内省で、式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、

それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けて完成させました。

そして、同年の11月3日の天長節(明治天皇の誕生日)に、この「ニュー君が代」が公の場で披露され評判を博しました。

そして明治21年に海軍省は表紙には「大日本禮式」と横書きされ、その下には「菊花御紋章」などが印刷された吹奏楽用の楽譜を各省庁及び条約諸外国に配布しました。

この「ニュー君が代」が現代でも歌われている「君が代」です。

つまり、今の「君が代」は二代目だったのです。

ところが

今の人はほとんど知らないと思いますが、実は「君が代」はもう一つ存在しているのです

それは、明治15年4月に文部省音楽取調掛が編纂した『小学唱歌集』初編の中で発表された小学唱歌「君が代」です。

こちらの君が代にはなんと二番もありました。

1 
君が代は 

千代に八千代に

さざれ石の

巌となりて 苔のむすまで

動き行く 常磐(ときわ)かきはに

かぎりもあらじ

2 

君が代は 千尋(ちひろ)のそこの

さざれ石の

鵜のいる磯と あらはるるまで

かぎりなき みよの栄を

ほぎたてまつる

1番は、前年に作られた「君が代」2番は『今選和歌集』の「源頼政の歌」

1番2番ともに終わりに稲垣千頴の新しい歌詞が付け加えられています。

では、どうして文部省が唱歌としして、この「君が代」を発表したかというと

当時、実は文部省も国歌制定を立案していて、文部省としては

国歌制定はそもそも音楽専門家を擁している我々の行うべき業務であり、海軍省などの関与すべきことではない

という他省に対する文部省の対抗心と、国歌制定の名誉を宮内庁雅楽課に渡したくないという音楽取調掛の功名心があったからなのです。

ですので、明治13年の天長節で初演奏された「第二の君が代」は

「あの歌は海軍省と宮内省が共同して作ったものであり、法的裏付けもなく単なる天皇奉祝の歌にすぎない」

という考えから文部省独自の立場から国歌を作成しようと考えたのでした。

そして国歌にするために、まずは学校などで唱歌として生徒や国民たちに愛されて、その広い支持を受けた形で国歌にしようと考えて、この「君が代」を掲載したのでした。

しかし、この「君が代」はイギリスのキャッチクラブ

(※貴族とジェントルマンのためのは世俗的な歌と卑猥な会話を楽しむ男性のためのクラブ)

の歌の曲に「君が代」のを詩を切り張りしてつけただけもので、歌詞と曲が微妙にマッチしておらず、また国歌として使うには気品もなく今一だったので、当然の如く人気はでず支持は得られませんでした。

また文部省は、この曲以外にも国歌転化を狙って

明治16年に『小学唱歌』第二篇、翌17年には第三篇を発行し、この中で

「皇御国」(スメラミクニ)
「栄行く御代」
「天津日嗣」
「太平の曲」
「瑞穂」

などの祝祭的唱歌を発表しましたが、一、二例を除いて、全てポーランドやスコットランドやアメリカの旋律に中には、ただ「外国歌曲」と記されている作曲者不祥・正体不明のものもあって、歌のタイトルに全く相応しくない曲ばかりで、文部省の思惑は見事に外れてしまいました。

そして明治26年8月

全国の小学校児童が歌う儀式唱歌の必要性を感じた文部省は全国の小学校児童が歌う儀式唱歌「祝日大祭日歌詞並楽譜」が8曲公布。

その中には、役所の対立を越え超党派的支持を受けて、

あの

海軍省作成「第二の君が代」も入っていました。

結局、軍配は海軍と宮内庁が作成した「君が代」に軍配が上がったのでした。

ちなみに「祝日大祭日歌」8曲は以下になります。

「君が代」
「勅語奉答」
「一月一日」
「元始祭」
「紀元節」
「神嘗祭」
「天長節」
「新嘗祭」

こうして「君が代」は国歌として国民から受け入れられていったのですが、日章旗と同様に法的な制定は、平成11年の国旗及び国歌に関する律を待たなければなりませんでした。

その背景には、海軍と陸軍の確執や文部省その他省庁の思惑があったからでは
ないかといわれています。

明治以降に、国歌として制定する機会はあったと思うのですが、自然に認めて歌われてきたから、そのままにしたというのは、日本人らしいといえば日本人らしいかもしれませんね

それはさておき、以上の流れから分かるように、「君が代」の詩が国歌として選ばれ、受け入れられたのは1000年以上に渡って

祝い歌

として親しまれてきたからで

「天皇を讃える歌」

というのは、解釈の仕方の一つであり、あくまでも後付であるということが分かると思います。

とにもかくにも、

祝いの歌として人々に普通に親しまれてきた。

ここが重要ポイント。テストにはでません。

大切なことなので2回いいました(`・ω・´)

ところで、世界の国歌の歌詞を見ると分かると思いますが

参考サイト

大多数の国の国歌の歌詞には「武器」や「血潮」や「勝利」といった闘争的内容が含まれています。

その背景には、外からの侵略や支配階級との闘争により勝ち取った歴史があるからだと思います。

逆にいえば、外からの侵略も支配者階級との闘争もなく「和」もって歴史を築き上げてきた日本だから穏やかで平和的な祝いの歌を国歌として持ちえたといえます。

こういう歴史的な背景とか流れを知れば知るほど、第二次大戦中に戦意高揚、国威発揚のために利用されたからといって、今だに目の仇にするのはどうかと思います、愚かしいことだと思います

みなさんはどう思いますかしら?


参考資料・サイト

日本史の中の世界一 』
田中英道・責任編集 育鵬社刊 

君が代・wikipedi
http://ja.wikipedia.org/wiki/君が代

三つの君が代
http://www.ongen-music.com/kimigayo/kaisetu.html


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