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#46 アメリカ文学への愛を語る

理想を伴わない想像力はただの空想だが、想像力を伴わない理性は無味乾燥である。

『100の思考実験』ジュリアン・バジーニ著 p.13 

 部屋の中ではコチコチと、時計を刻む音が聞こえる。それ以外に、存在を主張する音の群れは存在しない。1枚ずつ丁寧にページを捲るたびに、その瞬間パッと物語が生き生きと動き出すんだ。かつては斬新だと言われる誰かの人生も、気が付けばクラシックとなっている。それでも今もなお、脈々と受け継がれる語りの前にわたしは息をのむ。

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六畳一間の部屋の片隅で

 当時大学生だったわたしは、六畳一間の部屋の中で部屋干しされた洗濯物の匂いに包まれながら本を読んだ。部屋干しされた洗濯物たちは、みな黴臭い。授業で提示された本を皮切りにして、興味の赴くまま貪った。あまりにものめり込みすぎて、授業中にも本を読み教授に注意されるという本末転倒な生活である。

 中でも夢中になって読んだのが、英米文学だった。というよりも、大学では英米文学を専攻していたので、読まざるをえなかったというのが正しいかもしれない。もともと田んぼが渦巻く田舎町で暮らしており、外へのあこがれが強かった。結果あまり深く考えることなく英米文学を選ぶ。初めて上京した時のわたしは、さぞかし芋臭かったことだろう。

 「#1 本についての愛を語る」でも触れたが、最初に課題図書として提示されたのは、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』、F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』。これらの作品は、当時のわたし自身の考え方に影響をそれなりに与えたので、たぶん他でも割と言及しているかもしれない。その後は、教授から提示されたものも含めて、様々なジャンルを読み漁った。

※紹介した図書は、記事の末尾にも掲載しています。

 基本英米文学は、3年進学に当たりある程度の希望分野を選ぶことになる。大別すると、「言語学」・「イギリス文学」・「アメリカ文学」だ。もともと言葉が好きだったので「言語学」とも迷ったのだが、わたしが最終的に選んだのは、「アメリカ文学」だった。

言葉の緻密さと影

 好んで読んだ本は、トルーマン・カポーティとエドガー・アラン・ポー。 

 初めて『ティファニーで朝食を』を読んだときの衝撃がいまだに忘れられない。映画とは結末が異なり、周囲を翻弄する主人公の表裏一体然とした人の在り方に自分のこれからの行く末を真剣に考えた。結局迫りくる魅力に引き付けられて、そのまま卒業論文の題材となった。一見自由に見えるホリーは、孤独の人だったのかもしれない。

 その後も、トルーマン・カポーティの作品を立て続けに貪り読んだ。彼ほど、言葉の扱いに慣れている人はいないのではないだろうか。

 そっと大切な人に寄り添うように、言葉を紡ぎ出された作品ばかりだった。晩年は確か、アルコール依存症で若くして命を落とした。彼の紡ぎ出す物語を、もっと読みたかった。今となってはかなわない夢である。いっそのこと、ウッディアラン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』のようにタイムスリップして、昔の文豪たちと会えたらいいのにな。

 夢と現実の狭間、不安と孤独を精緻に描いた『夜の樹』。実際にあった事件がベースとなっている、『冷血』。恵まれた人たちの退廃的な生活を描いた『叶えられた祈り』。基本わたしは一度読んだ作品を読み返すことはないのだが、彼の作品は折あるごとに読みたくなる。

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 エドガー・アラン・ポーは総体的にゴシック小説という形で知られているのではなかろうか。ゴシックとはもともと「ゴート族風の」という意味がある。ゴート族とはヨーロッパを占領したゲルマン民族のことを指す。ということから、「残酷な、野蛮な」という意味に転じた。

 ことゴシック小説という形になると、怪奇小説のことを指す。中でも、『アッシャー家の崩壊』はポーの代表作。不治の病に侵された妹を失い、半ば狂乱的になったアッシャーの行く末が描かれる。あとは、『黒猫』。男はある日酒乱によって、可愛がっていた猫を殺してしまう。やがて、殺した猫に追い詰められていく姿が描かれている。

 このポーが生み出したゴシック小説は、以後の文学作品にもところどころ影響がみられる。中でも、わたしが個人的に推したいのはヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』。怪奇小説ともいわれているが、一方で人の心理にも光を当てた作品。本作品の優れているところは、本当にその事象が起こったのか誰もわからない点である。是非寝苦しい夜にお勧めしたい。ますます寝られなくなること請負である。

 他にも、ポーが残した功績としては、探偵小説だ。『モルグ街の殺人』は、探偵オーギュスト・デュパンが実際に起こった完璧とも呼ぶべき殺人事件を解くべく奔走する話。デュパンが登場する作品は以後もシリーズ化されている。実はポーの前にも推理小説らしきものは存在するのだが、はっきりと探偵が難事件を解決するのはデュパンが初めて。

 かの有名な明智小五郎シリーズを生み出した江戸川乱歩も、エドガー・アラン・ポーをもじって名前をつけたと言われる。ということは、だ。名探偵江戸川コナンも、ポーがいなかったら生まれていなかったのかもしれない。……というのはいささか飛躍しすぎだとは思うが。

何事にも、新進気鋭

 改めて読んでみると、アメリカ文学は一つの傾向やジャンルに捉われない。元々はイギリス国王ジェームズ1世からの弾圧を恐れてメイフラワー号に乗って未開の地へ向かった人たちが、まさに今のアメリカの礎を築いている。やがて、アメリカは自由の国と呼ばれるようになり、多種多様な民族を受け入れた。

 最初の一歩を踏み出そうとした人たちは、おそらく迫り来る不安と恐怖と戦っていたことだろう。もう後にも先にも引けない。自国に帰ろうものなら、圧政により苦しむことはわかっている。とはいえ、見知らぬ土地で果たして自分達はやっていけるのだろうか。

 一方で、思うのだ。不自由さから逃れるためには、自分自身も何かを切り捨てる覚悟が必要だということを。さまざまな民族が入り乱れる世界は良い点もあるし悪い点もある。自由と不自由さは表裏一体で、誰かが心地よい世界を歩く裏には影を連ねて生きねばならなくなる人もいる。

 葛藤し、苦悶し、それでも生きようという意志。暗い面もあるけれど、なぜだかアメリカ文学を読んでいると、明日を生きることにワクワクする。未だ見ない道端には、物語が転がっている。

 進むたびに、何とも言い知れぬ希望と愛を抱くのだ。

◆参考図書


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