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#42 余韻についての愛を語る

 ふと生活をする中で、深く呼吸をしたくなる時がある。日常は常にせわしなく回り続けていて、ひたすら走っているうちに息切れする。それは思いのほか、自分が意識のないまま積もり積もって折り重なっていく。誰かと話すのは楽しい、新しいことに挑戦することは楽しい、ちょっとした変化に飛び込んでみるのも楽しい。でも、時折息が詰まりそうになる。

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週末のエンドロール

 ずいぶん昔のことだけど、原田マハさんの『キネマの神様』という本を読んだ。ちょうど3年ほど前だっただろうか、『男はつらいよ』シリーズで有名な山田洋次監督がメガホンを取った作品。本来であれば、重要なキーパーソンである「ゴウ」は志村けんさんが演じられる予定だった。映画は結局今も、未鑑賞のまま。

 原作の中で今でも覚えているのは、主人公が映画館で映画を観るときはエンドロールを最後まで必ず終えてから出る、というポリシーを持っていること。確か、本当に物語の出だしの部分だったはずだ。

 人によっては映画を観るとき、エンドロールが流れた瞬間席を立ってしまう人もいるかと思う。わかります。エンドロールって、そこになにか物語がつながっているわけではないし、ただ延々とキャストの名前が連なるだけだし。席を立ちたくなる気持ちも、よく理解できる。

 でも映画に携わった人すべてが最後流れるところまでが、なんとなく映画としてのひとつの鑑賞方法なのではと、『キネマの神様』を読んでひどく納得したのである。それはなかなか言葉には表しにくいのだが、あえて一言で言うならば「余韻」、ということになる。

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微かに残る

 余韻とはもともとの意味を辿ると、音の鳴り終わったのちに、微かに残る響きのことを指す。年末になると年越しとともに鐘が鳴らされるが、しばらく音が反響したまま空気を滑り落ちていく。その音の伸びが、何とも言えない名残惜しさを醸し出している。

 先日久方ぶりに再会した友人と一緒に遊んだのだが、話は尽きず数時間ずっと喋り通しだった。ひとつの店に居座り続けて、そろそろ帰ろうかという空気がお互いの間に流れ始めたために、店を出る。

 その後、経緯はよくおぼえていないながらも結局、そのまま近くの喫茶店で短い時間を一緒に過ごした。その間、正直あまり話した記憶はないのだが、ふたりで対面して共にコーヒーを飲むその時間が何とも愛しいものに思えたのである。

 帰りの改札、手を握り合うカップルを見た。彼らは喫茶店での友人とわたしの時と同じように何も言葉を発することなく、はかなげな様子でお互いの目を見つめあっている。彼らは最後、「バイバイ」と言ってふたりとも反対のホームの中へと消えていった。

 パチパチと炭酸の泡が弾けている。いつだったか、喫茶店で飲んだ緑色のクリームソーダの味わいを思い出した。飲み終わった後も、ゆっくり時間をかけて、アイスクリームの甘さと炭酸水の刺激を想像の中で堪能している。

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余韻に浸る

 良質な映画や本に出会うと、思わずため息をついてしばらくその場から動けなくなる。余韻に浸ることによって、登場人物たちの姿を思い浮かべるのだ。かつて読んだ漫画の中で未だにわたしの心の中に残っているのは、あだち充が著した野球漫画の『H2』に出てきたワンシーンである。

 遅れてきた主人公に対して、ヒロインである古賀春香が、「待ってる時間も、デートの内でしょ」というシーンが印象的で、初めて読んだ時の感情を事あるごとにめくろうとする。できるだけこの時間が長く続けばいい、と思う瞬間ってあとどれくらいあるのだろう。

 そもそも、余韻って気持ちが満たされてるからこそ発生するものなんだろうな。気持ちがあくせくしていると、差し迫る日常の出来事に追われっぱなしでそこから何かその世界観に浸ることは難しくなる。つくづく平穏な日々の中にいることを実感する。

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残響と余韻

 余韻と似たような言葉に、残響がある。どちらの言葉も、音の連なりという意味ではとても近しいけれど、厳密には異なる。

 残響に至っては、必ずしも良い意味合いで使われるわけではない。音が断続的に続く様は時に、恐怖をもたらすものであることをハッと思い知るのだ。これはともすると、心の持ちようが二つの違いを引き立たせている気がする。

 日常の最中において、余韻をもたらすのは心のゆとりや余裕といったもののような気がする。隣近所からつらつらと流れてくる美味しそうな匂いだとか、見た目も味もこれまで見たこと味わったことのない料理だとか、心に響く音楽だとか。

 すべては、自分がそれを感じるという受け皿があって成立する過程。そしてわたしはつい今し方、読み終わった本のあとがきをつらつらと眺めている。先日1週間ほど、現実から離れて旅した時のことを思い出している。

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 遥か昔の記憶、イタリアのヴェネチアで船に乗っていた時のことを思い出す。水の上を、当てどもなくひたすら進んでいたときのこと。

 余韻に浸れば浸るほど、その時の楽しかった記憶が呼び起こされる。情緒溢れる世界において、非現実な世界の中に流れる空気を読み取った。飴玉をコロコロと舐めているような感覚に陥る。

 幸福で満ち足りた時間だった。余韻に浸ることのできる時間は長ければ長いほど良い。湯船にからだをゆっくり浸からせながらしみじみ思うわけだ。

 それはきっと、明日からの原動力になりうる愛だ。嫌なことで心が濁っても、ゆったりした時間がゆっくりと穏やかに解決してくれる。

 今も微かに残る香りに浸りながら、わたしは明日を夢見ている。


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