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ビロードの掟 第2夜

【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の三番目の物語です。

◆前回の物語

第一章 シトラスの名残り(2)

 荻原と飲むときには、いつも決まって行く店がある。それが「平成」という個人経営の居酒屋だ。

 既に新しい元号に変わって3年の月日が経過していた。いつだったか名前の由来を店長に聞いたことがある。どうやら平成元年生まれだそうで、それにちなんで店の名前をつけたらしい。まさかこんなにも早く元号が変わると思わなかったよ、と苦笑いしていた。凛太郎と荻原は平成3年生まれなので、ほぼ同世代ということになる。

「よお、凛太郎。さすが時間ぴったりだな」

 凛太郎が店へ到着すると、既に荻原がカウンターに座って心地よさげにビールを飲んでいた。辺りを見回すと、まだ早い時間にもかかわらず仕事終わりと思われるサラリーマンたちのグループがいくつもあった。

「荻原、おまえもうだいぶ飲んでるな。いつからここにいたんだよ」

 誰から見てもわかるくらい、荻原の頬は明らかに赤く染まっていた。察するに1杯は既に飲み終わった後と思われる。

「うーん、17時くらいかな。思ったよりも客先での打ち合わせが早く終わったもんでな」

 陽気な仕草で荻原はビールのジョッキを胸の上に掲げた。

「営業とは気楽な仕事だな」

「ははは。それは時と場合によるな。今日はたまたま早く上がれたけど、提案が重なると日を跨またぐのもざらさ。……あ、それと凛太郎の分の飲み物、先に注文しておいたぜ。ビールでよかったな」

「ああ」

 凛太郎が返事すると同時に、すっと店員がやってきて目の前にビールが置かれた。そのまま「乾杯!」と言ってグラスを合わせる。その後小一時間ほど、二人はお互いに最近の近況について話をした。時間が経つにつれ、プライベートな部分についても話が飛ぶ。

「そういや凛太郎、最近彼女とうまくいってんのか?」

 凛太郎には付き合って2年になる奈津美という彼女がいる。友人の紹介で何回か遊び、そしてそのままの流れで交際へと発展した。

 特に美人というわけでもなかったが、一緒にいるとお互い気を遣うことがなく好きな価値観もそれなりに合う。まだお互い明確に口にしているわけではないが、歳も歳だしこのまま行くと結婚になるんだろうなと考えていた。

「うーん、どうだろうな。可もなく不可もなくといったところだね。そういや荻原、おまえの話も風の噂で聞いたぜ。合コンで知り合った女の子と付き合い始めたんだって?」

「うわ、もうおまえのところにもその話伝わってるのか。本当に営業部の先輩方は口が軽い人たちばっかりだからな」

 荻原はどこか照れたように笑う。その仕草を見てこれが女の子の母性本能をくすぐるんだろうな、とぼんやり凛太郎は考えた。

「それより改まってどうしたのよ。おまえから誘ってくるなんて珍しいじゃないか」

「ああ、それなんだけどな」

 荻原は自分の目の前にあるビールグラスを傾け、黄金色の液体を勢いよく流し込んだ。珍しく緊張しているような雰囲気がある。店のざわめきが不思議とその瞬間静まったかのように感じた。しばらく荻原は言葉を発するのを躊躇していた様子だったが、意を決したかのように口を開く。

「俺な、近々今の会社を辞めようと思っているんだ」

「えっ……」

 思いがけない一言に凛太郎はほんの少しの間二の句を継ぐことができなかった。思わず喉がごくりとなる。

「荻原、そりゃまた寝耳に水だよ。おまえ、ついこの間同期の中で一番早く出世したばかりじゃないか。一体全体どうしたのさ?」

「うーん何だろうな」

 ビールのグラスを口へ持っていき、唇を湿らすかのように荻原は少しだけ液体を流し込んだ。どう話したものか、逡巡している様子が見てとれた。

「あれか、よくドラマとか小説とかで見るような会社の歯車にはなりたくない!とかそんな感じか?」

「ははは!お前がいうとなんだか芝居じみた感じになるな」

 荻原は屈託ない笑顔を見せたが、それはどこか顔の表面にマスクを貼り付けたような感じを凛太郎に与えた。

「前々から微妙な違和感みたいなものがあったんだよ。上司にも顧客にも毎日にようにペコペコしてさ。俺としてもいろいろ頭使ってそれなりに受注も取れたんだけど。30歳を迎えるにあたって今のままでいいのかって思いが胸の奥から沸々と湧いてくるようになった」

 その瞬間、荻原の顔が少し寂しそうになる。凛太郎から見た荻原はいつの時でも粘り強く、一見難しそうな顧客に対しても諦めず働きかけているような印象だった。

 大口受注をとって社内表彰されていた時の荻原の顔を思い出す。どこか眩しくて、自分自身には縁のない壇上に立っている荻原のことが素直に羨ましかった。もちろん飲めば割と頻繁に愚痴を聞くこともあったが、それも含めて人生そのものを楽しんでいるように凛太郎には見えていた。

「凛太郎とは何だかんだ一緒に過ごした時間も長いしさ。おまえには一番初めに伝えなきゃと思っていたんだ」

「そっか……」

 しんみりとした空気になってしまった。ビールを飲もうとグラスへ手を伸ばしたら、中はすでに空だった。その場の気まずい雰囲気を誤魔化ごまかすかのように凛太郎はマスターにビールのお代わりを頼んだ。少ししてからビールを並々と注がれたグラスが運ばれてくる。居酒屋の看板娘である奈々ちゃんが、「お待たせしました!」と元気に言って、ドンと注文の品を置いていった。

「おまえ会社辞めた後どうするんだよ?伝手つては何かあるのか?新しい就職先見つけてるとか?」

「それが情けない話でな。まだ見つかってないんだ。幸い貯金はそれなりに溜まっているから1ヶ月くらい日本を転々としようと思う。その後転職活動をしてもしダメだったら個人事業をしている叔父の仕事を手伝おうかな」

「おまえ、このご時世にいい身分だな」

 凛太郎は軽く肘で荻原の左脇腹を小突いた。その後は荻原の最近付き合い始めた彼女との惚気のろけ話になり、どこか満ち足りたような荻原の様子を見て凛太郎はホッとした気持ちになった。それから二人して怪しい足取りながらも茗荷谷みょうがだににある荻原の部屋へと向かい、そのまま気がつけば朝を迎えていた。

 そしてまた、同じような1日がゆっくりと始まっていく。

<第3夜へ続く>

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