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ビロードの掟 第3夜

【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の四番目の物語です。

◆前回の物語

第一章 シトラスの名残り(3) 

「思えば、生きている中で違和感なんて山ほどあった」

 荻原と飲んでいる時、彼が会社を辞めることを凛太郎に告白した。そのまま二人で夜明けまで飲み明かすことになる。その最中、突然荻原がぽつりと口にした言葉だ。

 その言葉を聞いて、凛太郎はどうしようもない息苦しさを覚えた。というよりも、社会人として働き始めてから折りあるごとにそれを感じていた。

 どこか地に足がついてないような、ふわふわと意識が外へと飛んでいくような奇妙な感覚。そう思ったきっかけは、実のところ凛太郎自身これといって理由を認識できていない。

 頭を思い巡らせて必死に考えようとしても、上滑りしていく。それは水を必死に掻いても、前に進まないような感じに似ている。自分が果たして今どこにいるのかわからず、足元がぐらぐらするのだ。

 その何とも言葉にし難い感情が、微妙な輪郭を伴って荻原が発した言葉と重なった気がした。

          *

 二人で飲みに行ってから1ヶ月後、宣言通り荻原は会社を辞めた。

 後から聞いたところによると直属の上司も随分と荻原のことを引き留めたようだが、彼の決意は揺るがないようだった。

 最後は同期でこぢんまりとした送別会を行った。そのときの綺麗さっぱりとした荻原の顔が妙に頭の中から消えない。これまで会社で積み上げたキャリアを捨てて違う道へと進もうとしている荻原のことが単純に羨ましかった。

 荻原がいなくなったオフィスでは、色が消えてしまったかのように凛太郎にとっては味気ない場所となってしまった。

 うだつの上がらない上司がポッキーをポリポリ食べている間にも、誰かが真剣になってカタカタカタカタとキーボードを叩いている。ディスプレイに向かって顔の見えない相手に言葉を投げ続けている。終わりの見えない人生にため息をついている。

 みんなきっと家に帰ったら養わなければならない誰かがいて、その人たちのことを思いながら毎日あくせく働いているのだ。俺だって彼らのように誰かのために働くことができたらどんなに良いだろうか、と凛太郎は半ば本気で思った。自分のことになると、人は途端に怠慢と隣り合わせに生きていく。いや、そんな姿勢は自分だけかもしれない。

 大学を卒業してから、かれこれ7年の月日が経とうとしていた。凛太郎にとって、社会は予想していた以上に荒れ狂う波だった。自分はいつまで経っても大人になれない大人で、30歳手前にも関わらず責任なんて言葉がすっぽりと抜けたまま、広い海原を漂っている。仕事は淡々とこなすけれど、真剣とは程遠い。

 同期は皆、果敢に獰猛どうもうな波に勇敢に立ち向かっていった。ひょっとするとそのうちいつか溺れて沈んでしまうかもしれないのに。

          *
 
 自分が何者なのかもわからないまま、3年目の春に新人たちが会社に入社してくる。彼らは皆、かつての自分と同じように期待に満ちた表情をしていた。そのうちの一人、三原麻理という女子大出身の女の子が下につき、凛太郎はメンターの立場としていろいろと教えることになる。

 彼女の瞳には仄かな強い意志のようなものがゆらゆらと燃えていた。その揺らぎない目を見て、正直なところ面倒だなと凛太郎は思った。自分の近しい人の面影を、彼女の顔つきの中に見た。

 その頃は、配属後に投入されたプロジェクトのタスクをこなすだけで日々精一杯。とてもじゃないが、彼女に対して自分がきちんと指導できるのかどうか自信がなかった。それでも業務命令だし上司から言われたことだし、なんとはなしに自分がこれまで学んできたことを伝えた。

 だけど、それが正確に血汐となってその後の彼女の人生に影響を与えたのか今もってわからないままだ。

 彼女が凛太郎の前からいなくなったあの日。吸ったタバコの苦さと手に残った嫌な匂いが、いつまでも頭の片隅から消えなかった。

 今回の荻原が会社を去ったことで、過去の記憶が引っ張り出される。彼女の時と同じように、自分には何もすることができなかったという寂しさと悔しさがずっと凛太郎の胸の中に燻くすぶっていた。

 前になんの話のくだりだったか忘れてしまったが、荻原が呂律ろれつの回らない口で気怠けだるげに突如ツバメの話をし始めた。

「なあ、凛太郎知ってるか。ツバメってな、巣に何羽も子供を育てるんだけど、その中で一羽か二羽ほかの雛と比べて『弱い』やつが出てきちゃうんだよな。その時に親鳥はどうするかというと、躊躇なく巣からその子供を突き落とす。俺小さい頃さ、親鳥から見放された雛を見つけちゃったことがあってな。あまりにも可哀想で拾って帰ったんだよ。でも、だめだった。数時間も経たないうちに魂が体から抜けちゃったよ。あれは悲しかったなぁ」

 荻原が何を伝えたくて凛太郎にその話をしたのか、よくわからなかった。次の日に荻原に真意を確かめたものの、本人自体がそもそもツバメの話をしたことをすっかり忘れていた。親から突き落とされた「弱い」雛鳥──。

 荻原のツバメの話は、今になって妙な臨場感を持って凛太郎の頭の中でぐるぐると回っている。弱い雛鳥に、現実に立ち向かう術はないのだろうか。

 今も尚、凛太郎は会社の歯車として生きながら、何を動かしているのか自分でもさっぱりわからないままだ。

 何かモヤモヤとした気持ちを抱えて迎えた8月の終わり、大学の友人である池澤から一通のLINEメッセージが送られてきた。

<第4夜へ続く>

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