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#82 植物についての愛を語る

 最近、季節の変わり目のせいなのか、ズンと頭が重い。どうしようもなく全身がキシキシと筋肉痛で鈍くなり、原因不明の事態に少し落ち込んでいた。1月に体調を崩した時のことが思い出され、慌てて体温計で測ったら37.1°と微妙な熱がある。次の日人と会う予定があったので、ちょっと困ったなと思って早めに寝たら思いの外朝は回復していたのに、その代わり口の中に線状の口内炎が突然現れてこれはちょっと体が疲れているのかな、と少しげんなりしてしまう。

 でも、そんな風に気持ちが多少塞ぎ込んでも今の私には楽しみなものがあって、それはこの間ホームセンターで買ってきた植物たちに水やりをすることだった。朝、決まりきったルーティーンがあるというそれだけでほんの少し勇気をもらえるような気がしてしまう。

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 一人暮らしをし始めた時、どうしようもない心の隙間がポッと浮かび上がってしまう時があった。なんだろう、大学でも社会人になってもほぼ毎日にようにそれなりに人と話す機会があったというのに、気がつけば埋められない溝ができあがっている。決して寂しくないはずなのにね、私は私の胸の内にそっと独り言を投げかける。しんとした空気が耐えられなくて、昔はよくテレビをつけてその寂しさの埋め合わせをしようとしたいたのに、それが最近では少ししんどい。ぶつ、ぶつと、時折音が途切れる。

 ある時を境にして急に思い立ち、植物を部屋に置くようになった。もともと昔から植物が好きな方だったように思う。家には物心ついた時に植物が植えてあって、色とりどりの花を咲かせていた。一人暮らしを始めてからもその記憶がずっと頭の中に残っていたのと、どこかペットの代わりに心の埋め合わせをしたい、という思いもあったのだろう。

 とあるデパートでガジュマルの木を見たことがきっかけだった。可愛らしいココナッツを半分に割った容器の中にこそっと入り、愛らしい葉っぱをつけてこちらを見ていた。何か、温かいものに触れたような気がして、思わず衝動買いをしてしまった。それから約10年ほど、今でもガジュマルの木は私のベランダに置いてあって、そよそよと優しい風に吹かれている。

 やがてそれからまた少し時は経ち、インドでスパイスの魅力に取り憑かれるようになってから、カレーを作るための実用的な植物を育てたいと思うことは極めて自然な流れだった。手始めに、バジル、ミント、ローズマリー。これらのハーブ系の植物たちは雑草魂が半端ないので、あまり手をかけなくてもすくすくと育つ。どうしても気温の変化に弱いので、冬になると枯れさせてしまったのだが。

 それから定期的に植物を植えるようになった。不思議なことに部屋に植物があるとその場所だけポッと光が当たったかのように温かい空間になる。彼らはあまり大々的に動いたりしないし、もちろん喋ることもないのだけど、確かな命の息吹を感じる。ああ、彼らも私たちと同じようにドクドクと脈打ちながら生きているのだという確かな確証があった。

 ハーブは、よく育ち、バジルはたとえば松の実、にんにく、オリーブオイルと一緒にジェノベーゼにしたりとか、ミントはお酒に漬け込んだりお茶として飲んだりさまざまな用途に使うことができる。自然と、いま育っている植物たちの葉っぱを使って料理をすることが楽しくなっていく。

 朝起きて、カーテンを開く。それは勿論私のためでもあるのだけど、光を浴びて、植物たちに対面することが楽しみでもあるのだ。「おはよう」、と気が付けば言葉をかけている。愛しさを伴って。じょうろに蛇口をひねって水を入れ、葉っぱの様子をチェックする。そっと触ると、指には爽やかな香りが付く。時には育てることに不慣れで、虫によって病気が広がり、ダメになってしまった時もあって、そのときはわが子のようにごめんね、と口の中で労りをもってささやきかける。

 もしかしたら、子どもを育てることってこういうことなんだろうな。子供の成長。少し前に友人の赤ん坊を見に行ったことがあって、仲良くしていた人が目の前ですっかり母親の顔をして子どもをあやしている姿を見て、何か神々しいものを見た気がした。彼女からは、甘いミルクの香りが漂っている。甘美で、幸せに包まれ、かつての友人はとても、とても穏やかな顔をして我が子を見つめている。

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 少しずつ少しずつ日々が流れ、毎日同じような業務(実際は割と違うことをあちこちしているのだけど)をこなす中で、思わずとりとめのない日常に恐怖を感じてしまう時があって。そんなときに、確かに植物の背丈が高くなっていって、時には花をつけ実をつけてという姿を見ると、確かに彼らも生長しているけれど私も確かに毎日成長し続けているんだ、という変な自信をもらうことができる。

 今はまだ私には子どももいないし、前に訪れた友人は毎日赤ん坊の泣き声にクタクタだよと言ってかつての彼女とは比べ物にならないくらい目の下にクマをつけているのを見て大変だと思ったけれど、それでも子どもを持つことのあこがれというものを捨て去ることができない。たぶんきっと、それはいつからか親としての使命、生きることに対しての生きがいにも直結しているのではないかとも思う。

 コロナが落ち着いても、私が所属している会社は比較的寛容で、だいたい半分くらいオフィスに出社すればいい、という規定になっている。オフィスは周りの人たちと気軽に話すことができる反面、見えないところで体力を使っている。そうだ、話すことにも体力がいるのだ。

 それを家に帰って、テレワークで仕事をしながら、あー一息つこうと思ってベランダに出て、緑の空間に囲まれていると本当にほっとするのだ。それはもっと探っていくと、人の原点にも戻るものがあって、もともと人が生きていく上では植物が育ったことによって得られる食物は欠かせないし、私たちが空気を吸うにしてもすべては植物たちが光合成をしているおかげなのだと思うと、私は毎日植物に水を上げて生かしているけれど、それと同時に私自身も彼らの存在によって生かされているのだ、と思わずにはいられない。

 きっと、そうだ。愛は、持ちつ持たれつ。互いに互いが存在を支えあっていることが健全であり、それが愛の正しい姿なのかもしれない。人の代わりに擬似的な愛情を注ぎながら、どうかこれからもスクスクと育ち、私の人生の行く末をそっと見守ってほしいと願ってささやかに水を注いでいる。


故にわたしは真摯に愛を語る

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