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#83 ピーナッツについての愛を語る

 ピーナッツという言葉は私にとって2つの意味がある。ひとつは、落花生を意味する言葉で、もうひとつはチャールズ・M・シュルツが1950年から書き始めた風刺に満ちた漫画のことだ。どちらに対しても、私は並々ならぬ愛をこめて語ることができる。

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 こないだ長い付き合いの友人たちと話をしていた時に、ふとした拍子に「そういえば、みんな何か習慣ってあるの?」という話題が振られた。その人曰く、彼はどんなに何か習慣づけようとしても、途中でなんでも放り出してしまうというか、定着させることが難しいのだという。

 思わずウゥンと唸ってしまった。私自身確かに過去何か習慣づけようとしたことはあった。朝30分本を読むとか、英語の勉強をするとか、夜仕事終わった後ランニングするとか。しかしどれも残念なことに長続きしなかった。なぜなら私はとてつもなく飽きっぽい人間だからである。そうだ、とんでもなく飽きっぽい。こうしてnoteを細々と書き続けていることも自分のことながら、驚く次第である。したがって、毎日同じことを何十年も続けている人の話を聞くと心底尊敬する。

 そんな私が唯一いや二つ続いているのは、将棋とピーナッツパンである。今回は将棋の話は脇に置いておいて(いつだったか愛を語った気がする)、ピーナッツパンだ。なぜピーナッツパンを食べることが定着したのか、そもそもきっかけは何かあったのか。

 もちろんきっかけはある。ここ数年で見た映画の中でトップ5くらいに好きな『ピーナッツバターファルコン』を見たことが関係している。ダウン症であるザックが、ピーナッツバターを篝火の近くで食べるシーンがあって、それが、とても、とてもとても美味しそうだったからである。そしてその彼の純粋な姿が美しくて、全然本旨と関係ないところなのに、何か自分が忘れてしまったものを思い出させてくれたような気がして、泣きたくなる。

 私は普段、あまり映画を何度も見直すことはない。その分の時間を、別の映画を観るのに使いたいと思ってしまうからだ。でも、この映画は3回見た。この作品に登場する人たちみんな、生きるのに不器用で、それでいて愛しかったから。最初は、映画館で見た。この映画に出会えたことに、感謝して、そして余韻を噛みしめた。登場人物全てが愛おしくて、彼らの人生に幸あれと願わずにはいられない。ああ、ピーナッツバター……。

 それは私の中で電流が走ったと言っても過言ではない。確かにピーナッツの魔力は知っている。だがそんな本能の赴くままむしゃぶりつくくらい美味しいのだろうか。その日に早速ピーナッツバターを買った。そして食べた時、確かにこれはクセになる……。とはいえ、毎日トーストにピーナッツバターをつけて食べるのは大変だ。ウロウロしていたら7と書かれたコンビニの一角で、フジパンのピーナッツコッペを見つけ、それからというものコーヒーとピーナッツコッペを食べることが日課となった。

 甘く、ガリッとした食感が癖になる。しょうもないことかもしれないが、朝に当分を入れると頭がうまく回転するような気持ちになって、うまくスイッチが入る感覚があった。

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 さてピーナッツパンはあまり中身のない感じになってしまったが、もう一つのピーナッツである。その中に出てくるスヌーピー。これはチャールズ・M・シュルツによって生み出されたおそらく世界中の半分くらいは知っているのではないかというくらい有名なキャラクターである。

 ご多聞にもれず私も大のスヌーピー好きであって、いい歳をした大人であるにもかかわらずスヌーピーのキャラクターがついたグッズを見つけてしまうとついつい衝動的に買ってしまいたくなってしまう(いつだったか、あまりにも好きすぎて、UFOキャッチャーで狂ったようにスヌーピーのぬいぐるみを手に入れることを繰り返していた。結果、私の家には10体くらいのスヌーピーがいるのだ)。これでは企業の思う壺である。でもとにかく彼の愛らしい顔も好きだが、同じくらい彼の皮肉な一面もとても愛している。

 そういえば、なんで『Peanuts』って言うんだろうって疑問に思っていたのだけれど、wikipediaとかで見ると"Peanuts"というのが「取るに足らない」という意味があって、それをなんの気はなしにプロデューサーが名付けて作者のシュルツは嫌がったという話もあるし、ずいぶん前にNHKでやっていた特集番組ではアメリカ言葉で子供たちという意味があるからだ、と言っていたからどうやら真実は闇の中である。

 もともとシュルツは漫画家として様々な漫画を描いていたのだが、なかなか売れっ子になるまでは苦労人だったらしい。そんな最中、自分の子どもたちをもとに漫画を書き始めた結果、これがたくさんの人たちに受け入れられることになった。連載は1950年から始まり50年にかけてシュルツが亡くなる直前までずっと連載された。

 なんといっても、『Peanuts』の世界には大人たちが一切登場しないというのが良い。子どもたちで形作られた世界。では大人の世界と違って単純化というと、そんなこともないのである。時には男女平等やベトナム戦争など、その折々で時事を取り入れつつ語られる子どもたちの言葉には妙なリアルがあった。もしシュルツが今も存命であるならば、今の世の中を一体どう見るのだろう。

 私が『Peanuts』のことをこんなにも愛しているのは、たぶん登場する子どもたちがいわゆる普通と言われる考え方や行動から少しずれていて、でもそのことを彼らが一つの個性としてとらえているからだと思う。不器用なチャーリー・ブラウン、勉強が苦手なペパーミント・パティ、埃と共に生きているピッグペン、毛布を握りしめ続けているライナス、お転婆なルーシー。彼らは子どもの世界で生きていながらも生きづらさを抱えていて、それでもそれをユーモアで吹き飛ばしてしまう姿が私にはまぶしかった。

 連載当初はもしかしたら取るに足らないものかもしれないけれど、時は経ち、シュルツはほぼ毎日欠かすことなく子どもたちの姿を描き続け、そして世界中のたくさんの人たちに愛されるようになった。ただ、それだけで尊敬に値する。より普通が求められがちで、他の人から外れることが恐ろしい世界で、確かに私たちは私たちだけの世界をもって生きている。

 きっとこれだけは、渡してはいけない。自分の正しいと思う、楽しいと感じることのできる時間を生きること。それだけで今自分が生きている価値があると思えてくるんだよね。ピーナッツへの愛というのは、私の、私に対する愛の表明なのかもしれない。


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