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#85 干からびた愛の行方

 最近、家の中にいるとほんの少し、窮屈に思ってしまう。

 少し前の話になるのだが、体調を崩していた。ここ数年、私は病とは縁遠い人間だと勝手に思い込んでいたのだが、今年初めに急に熱が出て苦しんだことから始まり、どうも今年はあまり良くない感じがする。それで、つい先日もある時から関節痛を感じるようになり、その三日後には口内炎ができて、そのまた二日後には喉の鈍い痛みと時々咳をするようになった。

 その時の私は割と自分の身に起きている症状が深刻なのかもしれないと思い立ち、本当に何年振りかわからないくらい近くの病院内の敷地に足を運んだ。私の周りで医者嫌いで多少体調が悪くても病院を訪れないのだと言う人がいて、それがより体調を悪化させてしまう原因なんだと聞いたことがありもういい歳してダメねぇ……なんてことを思っていたのだが、自分が実際その立場になると非常にいくことに躊躇してしまい、これは笑えないと思った。

 最初医師からは膠原病かもしれないねぇとサラリと言われてかなり恐れ慄いたのだが、その後何度か呼ばれて通院するうちに膠原病ではなくてウイルス性の感染症ですねとの診断を受けた。思いっきり肩の力が抜けて、昨日までやばいなやばいなと思っていた時が嘘のように帰りは軽やかに鼻歌歌いながら家まで帰った。

*

本性を曝け出すのも、
それが愛だっていうのも承知していたつもりなんだけど、
これは愛じゃないんじゃないかな

映画『隠れビッチ”やってました。』より

 愛の正体が、いまだにわからない。

 これまで、出会うたびに機会があればいろんな人に対して「貴方にとって愛ってなんですか?」と問いかけるようにしていたのだけど、やっぱりみんな愛を捉える形が違って、それはそれで面白い。けれど、まだ全容が見えなくてぼんやりと存在が霞んでいる。

 体を労るようにゆずジャムとすりおろした生姜をトポンとお気に入りのマグカップの中に入れ、電気ケトルで沸かしたお湯を盛大に注ぐと、ふわぁと優しい匂いが立ち込める。近頃ちょっとした言葉でも、胸にクサリと突き刺さる。映画とか小説で「こんなにも愛しているのに」とまるで決め台詞のように子どもなり恋人なりに対して吐き出す光景を見ると、それはトドメの言葉のように見えてしまう。その言葉を伝えられたら、身動きできなくなる。

 相手から吐き出された言葉は実態を伴って、じわじわと体を蝕んでいく。見えない日々の蓄積がまるで埃か何かのように堆積して、それが私の心を落ち着きなく、不安にさせていく。かつては、これほどまでに言葉の力が大きいということを自覚していなかった。それはたぶん、私自身がいまいち言葉の持つ意味をきちんと理解していなかったからのような気がする。

 愛は人の心を満たすものでもあるけれど、同時に人の心を縛りつけ、苦しめることのできる諸刃の剣になりうる。愛しているのに、というのはつまりあなたのことを私はこんなに思っているのにという言葉にとって変えることができる。愛、という響きだけでどうも重苦しい響きを兼ねている。日本語はこれだけ表現のある言語だというのに、愛という言葉に取って代わるような言葉を思いつくことができない。 

*

 毎日習慣のように朝カーテンをシャッと開けて、全身に温かな光を浴びながら植物に水をかけていたら、ふとした拍子に愛はもしかしたら植物のようにナイーブなのかもしれないということを急に思い立ち、その考えにとらわれて悶々と考えてしまうこととなった。

 愛は、毎日せっせせっせと植物を育てるかのように水をあげ続ける。でもそれは決して、あげすぎて良いものではない。うっかり水を注ぎ続けていくと、根腐れを起こしてしまう。何事も適切な量、というのがある。光を毎日浴びて呼吸をしながら、少しずつ根を土の中で張り巡らしていく。そこにタラタラと水を流し込み、彼らの息する姿をそっと見守る。下手に介入してはならない。人は誰しも愛を育むペースは違うものだし、それを一足飛びに無理やり育てようとすると、相手は決して答えてくれないのだから。

 最近様々な植物を育てる中で、昔からずっと育て続けていたガジュマルの木が冬ごろの寒波のせいで葉を落としぐったりと元気がない。もう少しきちんと気にかけておくべきだったと思ってももう遅い。進む時間は巻き戻すこともできないし、人との関係性というのも少しずつ澱が蓄積され、その距離感は常に変容していく。

 植物に毎日せっせせっせと適度に水をかけてから、そして思い出したように会社へ行って人と話をする。家の外に出るのは億劫だけど(事前にいろいろと準備するのがあまりにもめんどくさすぎて)、改めて人と話すことでしか見えてこないものもたくさんある。

 私は誰かと話すたびに、もしかしたらこの瞬間この話している間にも相手と私の中で愛は育まれているのかと思う。愛とは、決して異性に限ったわけでもなくて、もう少し大風呂敷を広げて俯瞰的に捉えてみてもいいのではないだろうか。相手を思い遣ったり心配することによって相手の立場も見えてくるし、きっとこの気遣わしげに思いやる時間こそが私にとっての愛なのかもしれないとも思ったりする。

 毎日相手の体調を気遣って、適度に水を提供しながら、どうか枯れないように、干からびないようにと願い、そして私は今日も貴方と会話をしています。

 来週から、私はまた一人国内を旅することにした。前からずっと行きたいと思っていた香川県。せっかくなのでうどんをひたすら食べて、旅先でいろんな人たちと話すことができたら嬉しいな。(執筆当時:6月10日)


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