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#78 見えないものについての愛を語る

 生きていると見えないところで少しずつ少しずつ、何かが密やかに動いていて、そして私自身も気がつかないままについと動かされている、そんな気分になる瞬間がある。

 それによってもたらされるものは果たして喜びなのかもしれないし、胸を貫くような痛みかもしれない。人は痛みに慣れ、次第に何も感じなくなって、何をそんなに気にしているのさ、気にしすぎだ、みんなと一緒が一番良いんだよと、呪符を持って立っている。「風流ですねぇ」と昔の人たちは季節折々の事物を観て言ったそうだけど、その風情を感じる心は季節の移ろいによってもたらされるものなのか、それとも誰かに共感してもらいたくて、自分の思考意思を認めてもらいたくて放ったのか、定かではない。

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「ねぇねぇ幽霊の存在って、信じる?」

 少し前だが友人たちと話をしている時に、「ねぇねぇ幽霊の存在って、信じる?」ということを誰かが言い始めて、ちょっとした議論? になったことがある。スピリチュアルなテーマになるのだが、私は実は10代後半から20代前半にかけて、そうした存在を実際に感じたことがあった。ちなみに、今はそうしたものの存在をほとんど感じなくなってしまった。

 これは誰しもあることなのだろうか。時間帯に関わらず、道を歩いているとふっと何か感じるのだ。おおよそこの世ではないものの存在を。夜寝ている時にも体が動かなくなって、不思議な存在を認識したこともある。その空間で、浮かび上がっていた。そのことを私が話すと、友人は真面目な顔をして、「もしかしたらそれは脳のバグ修正かもしれないけど、わからないね。この世の中何が起こっても不思議じゃないから」と言った。

 その人曰く、人は特に強い恐怖を感じた時など、自身を平常な状態に保たせるために空想を練り上げるのだという。だから場合によっては幽霊がいるように感じるとか、見たっていう感覚もその「脳のバグ修正」かもしれないというのだ。夢とか希望とかっていうのももしかしたらそうなのかな。辛いことがあっても、将来への期待を胸に抱けば少し生きやすくなる、そんな風にして言い聞かせることによって、心に希望の火を灯して、その火が消えないように育て、でもそれが正しいかどうかは誰も責任をとってくれない。

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違うことに憧れ、違っていることに怯えてる

 改めてふと振り返ってみると、私たちの周りには目に見えないものがたくさんあることに気がつく。人の体の中にいる何億という細胞たちも決して見ることはできないし、あとは厄介だなぁといつも頭を悩ませるのが誰かと会話する時に流れる空気だとか感情だとか、邪魔だと思う時もあるけれど、邪険にはできないものの存在。どうして、日本だとこんなにもみんな場の空気というものを気にするのだろう。うぐっ、と嗚咽を漏らしそうになる。私は、私は誰かと違う、そうであることを切に願いながらも、でも、私はあなたと同じ人間ですよと必死によるべを求めている。

 それはたぶん、日本の「おもてなし」文化とも紐づいているのかもしれない。誰かの顔を気にしながら私たちは生きていて、だからこそ相手の感情に聡くて、気遣いという言葉も生まれてくる。前留学していた時に、私の中にある微塵子ほどの気遣い魂を発揮させたら、現地の人たちに「そんなこと気にしなくてもいいのに!」と困惑した表情を浮かべられた。彼女たちのその返しが私にとっては新鮮で、何か希望めいたものを見出したし、私は私の価値を認めてもらえたと思って、初めてきちんと息を吸って、吐き出して、息を吸って吐き出して、深呼吸をできた、気がした。

 でも、私は実を言うとこうした「空気を読む」ことが少し苦手だった。少し、じゃないかも。空気を読むことでその場がうまく回ることは、間違いない。私はその空気に時々、うまく立ち回ることができなくなる。それだけにちょっと人が意図したものと違うことをして、「この人はおかしな人だ」とレッテルを貼られてしまうことにいつしか怯えるようになった。それを気にしなければいいのだけど、残念ながら私はそれほど図太くなくて、少しでも周りの空気を止めてしまうようなら苦しくて、切なくて、柄にもなく心底落ち込んだ。

 それはおそらく同調圧力みたいなところにもつながっている。特にコロナの時に、緊急事態宣言が発令されてみんな外に出なくなって海外から称賛されたというのをニュースかなんかで見たけれど、それは民度が高いという話ではなくて、他の人と違う行動をとるのが単に嫌だっただけではないかと思う。それによって、見えない誰かに糾弾されることは目に見えるから、なんで私はこんなに苦しんでいるのに、あなたはそんな飄々としていられるの? 今はみんなが耐え忍ぶ時なんだから。みんながそれぞれ自粛警察と化して、列から外れることは許さないし、裏切り者は告発される。

 それで、これも本当にたまたまなのだがそんなことを考えて図書館の海を漂ってライザップしていたら、私のモヤモヤとした気持ちを解消してくれる本に出会った。あまり意図せずに気になって恐る恐る読み進めていったら、私の中のわだかまりが少しずつ、氷解していく感覚があった。溶けていって、体の中を温もりがたらたらと流れていく。

 書籍によれば、私たちが空気と呼んでいるのは世間という言葉に置き換えられるそうだ。世間とは、”現在および将来、自分に関係がある人たちだけで形成される世界のこと”(原文ママ)。私たちはとても、とても狭い世界において、他の人たちの顔色をうかがいながら、どうにか世間が作り出したものさしから逸れることのないように息をしている。

 コロナの時も、ただ病気になったせいでまるでその人の存在が悪いかのように後ろ指を立てて、列から外れた人を糾弾する。あなたはもう、私たちと同じ仲間じゃないからね。本の中では、世間のルールとして同族意識を持ちながらも仲間外れを見つけようとするという内容があったけれど、確かにそうして内部にいる人たち同士で「私たちは正しい人間だよね」と言ってつながりだとか絆だとか強めている部分もあって、そのつながりを強めている要因は爪弾きにされてしまった人たちの存在なのかもしれない。

 ちなみに他の国を見ると、世間と名の付くものはほとんど存在しないそうだ。他の国では社会が正常に働いていて、だからこそエレベーターで何の関係もない人たちにも「こんにちは、いい天気ですね」と声をかけることができる。そして、他の人と比べることをせずに自分らしく生きることもできる。私にも覚えがあって、かつて海外を少しの間留学していた時に、確かに日本で覚えたような息苦しさは感じなかった。日本では、空気を読む文化の弊害で、圧倒的に他国と比べると自殺者の数が多い。少しでも列から遅れたりとか、迷って違う道に進んでしまったりとかすると隣に並んでくれる人を探すことは難しい。だから一緒にそれでも並んでくれる人を、私は真の愛情を持って接したい。

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敵意はないからさ

 とは言いつつも、昔に比べると少しずつだけど「世間」が変わってきている事実も、認めるべきだ。かつてであれば普通の人と少し違う行動をしてしまう人のことを、「あの人、変な人だから近づいちゃダメよ」と白眼視することもあったのだろうが、最近はもう少しそうした人たちに寄り添って理解を示そう、という風潮になっている気がする。

 それをたとえばグレーゾーンと名付け、発達障害まではいかないけれどその特性をいくつか持っている人たちを総称するようになる(これは以前の記事で述べた)。あるいは、LGBTQに代表されるような人たち。私たちは何かに名称をつけることで、理解できないものを理解したような気になる傾向があり、定義づけようとする。なぜなら、未知なるものをは怖いからだ。名前をつけた瞬間、それは訳のわからないものではなくなり、得体の知れたものと変わっていくのだ。コロナが流行り始めた時もさまざまな憶測やデマが世の中を跋扈して、人は疑心暗鬼に陥った。

 ──で、グレーゾーンの話にちょっとフォーカスしてみると、たまたま私が最近見た映画でもそうした特性を持っている人たちが出てくることに気がついた。会話の流れを踏まえずに言葉を丸ごと受け取ったりとか、一つのことにこだわり続けたり、感情に敏感だったり(感情に敏感な人のことは、HSP:Highly Sensitive Personという名称が付けられている)。

 それぞれの作品を観ながら改めて思ったけれど、こうした人の特性もまた見えないものであって、その場の流れでなんとなく普通の人ではないというレッテルを貼っていくのだが、そもそも普通の人って存在しないのでは、という結論に至る。普通の人=無個性ということになって、それはそれでつまらない。何もかもそつにこなせる人はそれは仕事では重宝されるかもしれないけれど、何かしらちょっと変わったところがある方が私からしたら興味が湧くし、親近感を持つこともできる。

 でも、みんな普通であるということに異常にこだわっている。これだけ趣味嗜好が多様化された世の中であっても、「人とは違う人間になりたい」と切に願いながら、他の人と同じレールに乗りたがって私もあなたと同じ人間だから仲良くしてよ、と縋りつく。だって、人と違うレールを走るのは怖いもんね。場合によっては孤独になってしまうから。一寸先は、闇かもしれない、手を差し伸べてくれる保証はどこにもない。わからないものに手を伸ばすほど私たちは愚かではないからさ。

 そうだ、私たちは見えないたくさんのものに踊らされ続けている。それは人間の集団的本能のようなものと結びついてしまっているから逃れづらい。よっぽど強い意志を持っていないと。かくいう私も、これだけ色々書いておきながら人の表情見て、人と違うことをしていないかなと顔色を窺っている臆病者だ。

 そうなんだろうな、みんな矛盾と葛藤を抱えている。人と違う人間でありたいと願いながら、一方で人と同じでありたいと願っている。他の人と同じだというぬるま湯に浸かることは気持ちいいから。大丈夫、大丈夫、私はみんなと同じだよ、敵意はありませんから、安心してね。

 でも、そうした人の不完全さというものを私は、私は心の底から愛しいと思いながらも憎んでもいる。どうして自分は人と違うところがあるんだろうと思い悩みながら、でも違うところがある自分も好きで、でも時々は同調するかのように人の意見に対してうんうんと頷いている。完全に形になりきっていない。大人になったらもっと楽に呼吸できるようになると思っていたけれど、そんなことはなくて今もぐるぐる、ぐるぐる出口の見えない迷路をただ歩いている。

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 ……もう一度、原点に立ち返ろう。たぶん、きっと、この世の中は目に見えないもので溢れていて、それらは私たちの行動を制限もするし、自由にもする。そうした目に見えないものに対する私自身の感情の揺れ動きを記憶に留めておきたいと願い、ずっと写真なり文章を書いたりしている。確かにそこには誰の意思も介在しない、私だけの世界があるんだよということを、私のことを認めてくれる誰かに知って欲しくて。

 人と人との関わりの中での見えないものの最たる例が愛であって、今は朧げながらもそれが少しずつ輪郭を帯びてきている。他の人に同調しながらも、謀らずも正しく自分であることに愛を覚えることによって、私がここにいる意味みたいなものが見えてきますようにと、切に願っている。一抹の不安と、苦しさを同居させながら。


故にわたしは真摯に愛を語る

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