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父親の日曜日〜連載小説

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連載小説描き下ろし。毎週日曜更新で、チェロを弾く父親の再起を図る1年間を書き綴ってみました。初めての試みなので、推敲したいですが、まずは書き終えてホッとしています。
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あとがき

あとがき

日曜連載の小説を書き始めたのは、本番の1週間後の日曜日。2週間前から日記として書いていた興奮冷めやらず、である。そして、いつの間にか、あれから半年後の本番が、また近づいている。書き終えた1週間後にこのあとがきで、次の本番まであと1ヶ月、筆を置けると思っていたら、置いた筆が思いの外重かった。半年前の本番は、それはもう貴重な宝物には違いないが、人は欲深い生き物。もっと弾きたい、弾けるようになりたいと思

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最終話「旅の始まり」

最終話「旅の始まり」

まだ暗くなる前、疲れてはいたものの、乗り切った喜びが全身を駆け巡っている。木管と低弦のメンバーで、ホールから少し歩いた居酒屋に入った。日曜の夕方、まだ開いてない店も多い。ここも開店と同時に予約をしてあった店だ。いつものホールで、いつもの店のようだった。客は僕たち以外にまだ誰もいない。僕たちも疲れているので、軽く飲んで好きな時間に帰る感じだ。まだ早い時間なので、大きな楽器や荷物を空いている席に置かせ

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第20話「本番」

第20話「本番」

ホールの音響は、想像以上だった。恐らくこの感覚は、経験を積むほど違いもわかるのだろうが、初めての僕にはまず驚きだった。昨日リハーサルをしたばかりなので、よくわかる。同じ楽団、同じ曲とは思えなかった。ホールのせいだけではないのかもしれない。ステージリハは、リラックスした気分もあったからか、伸びやかなハーモニーだった。客席からどう聴こえるかはわからないが、半年前の日曜日、僕は客席に座って、このオケが弾

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第19話「その、日曜日」

第19話「その、日曜日」

いよいよ、その日曜日の朝が来た。20階のホテルのラウンジで朝食を取りながら、窓の外に広がる穏やかな青空に目を細める。昨日チェックインを済ませ、ホテルの地下にある人気のバーバーで、夢見心地のひと時を過ごしたせいか、朝の準備に慌てることもない。
ちょうど1年前の6月も、長女の旅立ち前夜にこのホテルに家族で泊まり、ここで朝食を取って空港に向かった。その翌日の日曜日からこの物語を始めたわけだが、そろそろ終

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第18話「リハーサル」

第18話「リハーサル」

合奏練習の休憩中、定期演奏会当日のスケジュールや注意事項がメンバーに配布される。オケではすべて初めてのことだったが、先日フラメンコ公演の舞台に立った時も、似たようなことはあった。その意味では、少しは落ち着ける。
楽譜は本番用に少し大きなしっかり目の紙で作り直した。めくりやすいように、切ったり貼ったり。丁寧に製本した。毎日いつでも練習できるように持ち歩いたボロボロの楽譜から、大事な指示を書き写す。始

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第17話「舞台」

第17話「舞台」

ゴールデンウィーク、僕は久しぶりにフラメンコ公演の舞台に立つ。朝からホールに入り、楽屋で衣装や化粧の準備をし、場当たりをした。そして、リハーサル。舞台の照明が落ち、幕が開く。板についていた僕は、ポーズをしたまま、不覚にも涙が溢れていた。無音のまま動き出す。静かに、ゆっくりと。このままでは踊れない。とっさに僕は、溢れ出る感情を必死に押さえていた。立ち上がる。目を合わせる。その瞬間、僕は冷静になった。

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第16話「いつの日か」

第16話「いつの日か」

6月の定期演奏会まで、毎日モーツァルトを弾く、あるいは弾けない日は、モーツァルトを聴く日が続いている。本当に少しずつではあるが、身体が音や速さに馴染んできた。モーツァルトらしい流れや変化にも、モーツァルトの思いが楽譜からだけでなく、音を通じて僕の身体の中心に届く。僕はただその流れや変化に身を任せるだけだ。今はまだ僕の奏でる音は、自分のイメージとかけ離れているけれども、いつの日か一致すると信じて。少

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第15話「セレナード」

第15話「セレナード」

今回のメイン曲は「ハフナー・セレナード」だ。モーツァルトのセレナードで、第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と並ぶ人気の、第7番ニ長調k.250。1776年、モーツァルト二十歳の頃、ザルツブルクの富豪ハフナー家の結婚式前夜祭のために作曲された。この曲を演奏する音楽家たちの入退場のために、行進曲k.249も作曲され、今回僕たちはアンコールで演奏するが、通常は最初に演奏されることが多い。全8楽

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第14話「日曜の朝は」

第14話「日曜の朝は」

日曜の朝は、時間がゆっくりに感じる。道も電車も空いている。僕の学生時代、日曜の午前中はダンスの練習だった。会場に向かう朝、見違えるほど空いている甲州街道を、ラジオを聴きながら運転する気分は最高だ。そして必ず思い出す、尾崎豊の訃報を聴いたのも、甲州街道の運転中だった。信号待ちで、ハンドルを握り締め、突っ伏した。あの時のハンドルの感触、張り詰めた空気。息苦しさから逃れるように、アクセルを踏んだ。日曜の

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第13話「入団」

第13話「入団」

入団申込書を提出してください、とチェロ首席の岩崎さんからメールが届いたのは、3月に入ってすぐのことだ。3回練習に参加して、なんとか認められたわけだが、定期演奏会は3ヶ月後に迫っている。岩崎さんに感謝のメールを書きながら、焦らず地道にやるだけだと、自分に言い聞かせた。
今までの教室の先生は、相変わらず姿勢とか正確な音程にこだわり、新しい坂本先生は、音の出し方や合わせ方にこだわるので、いいバランスだっ

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第12話「合奏」

第12話「合奏」

こんなに緊張したのは、いつ以来だろうか。いや、緊張とは少し違う。緊張もしたが、集中したといったほうがいいかもしれない。何もかもが初めてで、3時間の合奏練習が終わった時は、全身の力が抜けて、チェロを背負って歩くのもふらつき、駅から離れて空いているカフェを探した。
シンフォニーからだったので、落ち着いて始めることができたのは、よかった。弾けないところもあるが、弾けるところもある。驚いたのは、音の強弱が

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第11話「クリスマス」

第11話「クリスマス」

いつの間にか街はすっかりクリスマスの装飾に彩られていた。チェロの先生とは渋谷の大通り沿いにある、楽器専門店で待ち合わせをした。
レッスンに通っている楽器店主催のチェロフェアにも何度か足を運んでいたが、自分の演奏が未熟すぎて、楽器の価値を実感できるまでは、欧州製でさえあれば最低価格でもいいと考えている。コロナで生産が追いつかず、日本までなかなか来ないという店員の説明も、聞き飽きていた。
今日も20万

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第10話「そして、モーツァルト」

第10話「そして、モーツァルト」

五木さんにメールしたのは、五木さんがコントラバスを弾いたアマオケの、定期演奏会から帰宅してすぐのことだ。演奏会に誘ってくださった御礼と、第2番がとてもいい曲に思えたこと、そして選曲が見事だったことなど、僕が感じたことを率直に伝えた。僕はベートーヴェンが好きだったので、第2番に驚いたのだが、よく考えてみれば、ベートーヴェンはモーツァルトがいたから、ベートーヴェンになることができた、とも言えるのではな

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第9話「パリ」

第9話「パリ」

モーツァルトの交響曲第31番「パリ」は1778年、パリの聴衆の好みに合わせて、モーツァルトにしては異例なほど推敲され、初演で大成功を収めたと言われている。フランス革命のまだ10年前、ちょうどアメリカ独立戦争にフランスが参戦する頃で、ルイ16世とオーストリア王女のマリー・アントワネットの結婚により、ウィーンとパリはいろんな意味で近かった。モーツァルト自身はザルツブルグからミュンヘン、次いでマンハイム

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