みずきけい

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日々、賢者であれ

心を引き裂き、切り刻み、油をかけて火をつけるのだ。そうでもしないと私の人生には何の価値もないんだと思うと、たまらなく興奮した。 野犬のように唸りながらまちを彷徨う夜が私にもある。 子供の頃から自分にさまざまな別の名前をつけていた。 本名は響きがダサくて嫌いだったし、親がつけた名前であることも気に入らなかったし、画数がよかったとかいう名付けの動機もサムかったし、とにかく別の名前になりたかった。 別の何かになりたかったのかもしれない。ダサくなくて、サムくない何かに。 まだ若く

    • ものぐさみずき

      すすんで暴力を行使する者がやってきて、他の者から何かを奪おうとする時、抗う術は戦うことしかない。 暴力を否定するために黙して耐え忍ぶ、その信念がどれほど尊くとも、図式としては暴力を振りかざした者が勝利する結果になってしまうだろう。そうして社会の中で暴力がより大きな力を持てば、いずれ誰にも抑えられなくなってしまう。 こんな悲しいことはない。 いま現実に、実際に暴力に晒されている当事者が何かを守るためには、同じく暴力をもって戦う以外ないかもしれない。そういった事態の中で、暴力を、

      • 孤高の凡人

        運動にはエネルギーがいる。目に見えないものもタダじゃない。他の惑星に住んだら空気も有料で、闇市では質の悪い安物の酸素が出回る。 肉体と同じように、心が疲れているときは、うまく動かすことができない。心が傷ついたときも、患部を清潔にして保護しなくてはならない。 何を見てもしけた気分になるときは帰って休んだほうがいい。できればぬいぐるみとお話した方がいい。無理をして立ち回ると人に優しくする余裕もなくなって、誰も得しない。 ねえ聞いてよ! 生きてるのってしんどいな? 別に何があっ

        • 御耳を失礼。

          私の好きな本を書いた人たちが、人間をやるのが難しい、地球人をやるのが難しい、と言う。 逆に「私は人間をやるのが得意です!」という人を見たことがない(私が不勉強なだけかもしれないけど)。 得意な人は「人間をやる」なんて意識したことすらないのかもしれない。ナチュラルボーンヒューマン。もしどこかに「人間をやるのが大の得意、私が地球人のトップランカーだ!」という人がいたら話を聞いてみたい。講演会があったら行ってみたい。 あんなに面白くて素敵な人たちが「うまくできない」と感じ、時には

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          15本

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          タオルで目を覆い、仰向けの姿勢でじっとしていると、自分が両手を体の横に置いているのか、腿の上に置いているのかわからなくなった。ひざを曲げているのか、伸ばしているのかわからなくなった。いま手足があるのかどうかもわからなくなった。 とても心地よかった。 心も同じようにできたらいいのにと思ったのだけど、はなから目に見えない、形のないものと認識しているせいか、変化のこつがわからない。 ほんとうは、もうなんにもしたくない 夜になって時間が足りなくなり、起きなかった二時間をいつも後悔

          彷徨う混沌王と蘇る超力兵団

          目覚めてまもない数秒の意識が好きだ。 そこには何もない。 私がない。他者がない。社会がない。 善悪がない。罪もないし、罰もない。 肉体の感覚や輪郭もおぼろげで、 誰でもないものの、意識の他には何もない。 森の中で魚と木の実を食べて、風の歌を聴き、雨を浴び、太陽や星を眺めて暮らすのは、この起き抜けの意識でずっと生きるような感じかもしれない。 人間は、ただ生きているだけで素晴らしい。 そう思いたいはずなのだけど、 不満はない。何に困っているわけでもない。 昨日の夜には希望のか

          彷徨う混沌王と蘇る超力兵団

          三界

          何かひとつでも違ったら、別の結果があっただろうか。 その分岐点はどこだったのか? どこまで戻ればいいのか、人間の想像が及ぶものか? 誰かを断罪しても、自分の行いを悔やんでも、 現在はいまここにあるものの他にない。 目の前にあるかもしれない見えない糸にも触れられない。 風呂に浸かっていると、自分の肉体の脆さが目について不安になる。 見えるもの、触れるもの、一切が不確かに思えて怖くなってくる。 認知の背骨が曲がっているのか? 身体中が痛くて、自分なりに頑張ってはいるんですが、

          喫茶喫食

          「人生の意味よりも、人生そのものを愛するってことだな?」 スマホ見ながら平気で階段とか駅のホーム歩いてるやつ、 全員転べよ。前見ろタコ。 おまえの思考停止の牛歩につきあってられるほど私は暇じゃない。 おまけに靴紐までほどけちゃってるやつ、 大事故になる前に平地で転べよ一回。 私はカッコつけ自意識がカンストしてるから あんな「私は視野が狭いです」と文字通り、 体現するような真似は恥ずかしくてとてもできない。 "他人の視線に怯えずに、のびのび生きよう" これはその裏面なのかも

          いとしの未来ちゃん

          シャープペンシルの芯が切れたので買いに行った。 シャーペンは子供の頃から普通に使っていたはずなんだけど、芯の太さに違いがあるなんてはじめて知った。いまは細かい字を書くことが多いから3mmにしてみよう、と思った。 新しい替芯をいままで使っていたペンに入れたら、上手く使えない。 ……そりゃそうだ。芯の太さで外側の造りも当然変わるはずだ。自分はずいぶんぼんやり生きてるな、と思った。芯を買い直すことも考えたけど、いつから使っているかもわからない、小汚ないシャープペンシルの方を買い換え

          いとしの未来ちゃん

          寵愛

          いつか機会があったら「行うのが容易い善だけ選んで天国に行けるんなら誰も苦労はしない」と言ってやりたかった。 実家に行った次の日、身体が重くてなんとなく一日潰してしまう。 先月もそうだったな、と思った。ここ数ヶ月その傾向に甘えている。 「昨日の記憶さえなかったら起き上がれるのに」となぜかひたすら思っていて、そうやって極端な思考に走るのは危険な兆候だと思った。 激しい口論があったとか、きつい嫌味を言われたとか、別にそういうんじゃない。まあ普通だったと思う。ちょっとした頼まれごと

          ほとんど生まれてきた意味を掴みとるような

          夏ものの、とても素敵な靴を持っていた。 何を着ても合わせられるし、足がしっくりおさまって長時間歩いても痛くならない。誰にでも自慢したくなるかわいい靴だった。この靴に並ぶくらいのデザインと歩きやすさを兼ね備えた靴はいくら探しても他になく、くたびれてきてもめげずに何年も履いていた。 今年も涼しげな格好で歩く季節がやってきた。 久々に履いたその靴はやっぱり惚れ惚れするし、一日歩き回っても全然疲れない。 でも帰りの電車を待ちながら、うっとりと靴を見ていて思った。 私はこの靴が大好

          ほとんど生まれてきた意味を掴みとるような

          ぬいぐるみのひとたち

          ぬいぐるみのひとたち

          東風寅

          情けない人間です。 いつもサボることばかり考えて。 できない言い訳ばっかり考えて。 頑張りたい気持ちはあるのだけど… なんて本当に? 「気持ちはある」って言ってれば、 実際に頑張らなくても時間が過ぎてくれると思ってないか? ちょっと調子が出てきた日には、 きっとこの日のための助走だった! なんて都合のいい それでも命が飢えているから、 言い訳を必要とするのは「納得はしてない」ということだ。 私は性根がええかっこしいだから、 何周考えてもやっぱりいちばんは「格好つけたい」と

          音写

          『遍く主人公は井戸に潜る』 これは私が考えた標語。 得ることと失うことは同義だから、生と死は同じ匂いがする。生きてるか、死んでるかは、単にあり方のジャンルの違いなのかもしれない。 『たとえば、街を歩くとします。』 この一行目がいつも、いつも、いつも、頭の中でこだましている。 自分が予告なしで死んでしまった場合に、この世に残ることになるもののことを考えた。 小説や映画の感想メモ、五年日記、画像フォルダ、下書き。何かを書きかけたことを誰にも知られたくないから、書きかけたものを

          異教

          あんなすごいものを作れる人がいると知ると、こんな深いものを書ける人がいるんだと思うと、冷や汗が吹き出して体が震える。体温が下がって、呼吸が浅くなって、手足の先から感覚がなくなっていって軽い吐き気で奥歯がかみ合わなくなる。 自分は何も積み上げてないのに、苦しんでないのに、羨む資格など微塵もないのに、悔しい。自分にはそれを作れないことが悔しい。 つまんない映画を観ると腹が立つ。でもどこかで良い気分でもあるようだ。こんなつまんない映画も完成して配信されてるんだから、世の中にある

          よろしく

          頭痛 頭痛頭痛 頭痛 頭痛 頭痛 頭痛