ものぐさみずき

すすんで暴力を行使する者がやってきて、他の者から何かを奪おうとする時、抗う術は戦うことしかない。
暴力を否定するために黙して耐え忍ぶ、その信念がどれほど尊くとも、図式としては暴力を振りかざした者が勝利する結果になってしまうだろう。そうして社会の中で暴力がより大きな力を持てば、いずれ誰にも抑えられなくなってしまう。
こんな悲しいことはない。
いま現実に、実際に暴力に晒されている当事者が何かを守るためには、同じく暴力をもって戦う以外ないかもしれない。そういった事態の中で、暴力を、暴力以外の方法で抑止することができるのは、『当事者のそばにいる第三者』だけなのではないか。

どのような力であっても、行使する側にとってみれば『正義』なのかもしれないし、受ける側からすれば『暴力』ということになるのかもしれない。
それでも人間同士で争い傷つけ合うことは、人間の力と知恵で、人間のやり方で止めることができるはずだと思う。だって人間が引き起こしているんだから。

正義のヒーローが暴力を行使するわりに毎回とどめを刺さないことをずっと疑問に思っていたのだけど、それがひとりの人間の心の中を表しているのだと誰かに教えてもらって、やっと合点がいった。
影は共にある。
私たちは違う考えを持った隣の誰かではなくて、人間の中にある『暴力』そのものと戦っているのだ。

過去に生きてきたすべての人たち。
笑ったり、悩んだり、ごはんを食べたり、歌をうたったりして積み重ねられた日常。何かを得るために争い、何かを守るために戦い、互いに負ってきた深く激しい傷の形。好奇心と探究心と、利己と利他がないまぜになって進み、発展した文明、更新されてきた倫理。
過去に生きてきたすべての人たちの命と願いの先頭に、いま私たちは立っている。

人間の暇にいつの間にか「可処分時間」という名前がついていた。様々なコンテンツが、刺激が、バズが、武器が、人々の時間やお金や命を奪い合っているような気がした。
命とは、奪うのではなく分け合うものだ。
私に人生があるうちに、生活があるうちに、自由があるうちに、そういう風に生きられたらいいなと思う。