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御耳を失礼。

私の好きな本を書いた人たちが、人間をやるのが難しい、地球人をやるのが難しい、と言う。
逆に「私は人間をやるのが得意です!」という人を見たことがない(私が不勉強なだけかもしれないけど)。
得意な人は「人間をやる」なんて意識したことすらないのかもしれない。ナチュラルボーンヒューマン。もしどこかに「人間をやるのが大の得意、私が地球人のトップランカーだ!」という人がいたら話を聞いてみたい。講演会があったら行ってみたい。

あんなに面白くて素敵な人たちが「うまくできない」と感じ、時にはそのことに傷ついてしまう"人間"とはいったいなんなんだろう。
私は根っからの地球贔屓だし、自分を人間以外の何かだと感じたことはない。SF小説の読まなすぎかもしれない。終始"人間"の自覚があったから、出来損ないとか失敗作とか、そういう言葉がついて回ったんだろう。
では「人間(もしくは、地球人)ってなんですか?」と聞かれても、生物学的な特徴をいくつか思いつく程度だ。何もわかっていない。

連休に帰省した。
実家では、作りのしっかりした割り箸を洗って再利用している。ペアがわかるように頭のところに油性ペンでそれぞれマークが書いてある(◎×◼️など)。ラベルを剥がした食器用洗剤と、アクリル毛糸の手編みのスポンジ。
冷蔵庫に缶コーヒーが冷えていた。「もらったけど飲まない」からと、捨てるのも忍びなくとりあえずしまわれたまま。
洗面台には、たばこの焦げ跡を自分で補修した跡がいくつもある。白いパテを盛って穴を埋めただけなのであんまり補修にもなってない。
生地の薄くなったタオルが掛かっている。洗濯かごに入った、猫のプリントが色褪せてくったりとしたTシャツ。化粧品のびんに油性ペンで開封日を書いてある。ハンドクリームやサプリメントの容器にも。
一度使って「全然効かなかった」と腹を立てていた浴室鏡のくもりどめには、びっしりと茶色いほこりが積もりつくしている。並んでいるもののうち1/3くらいはほこりが積もっている。

生きるというのは、こういった取るに足らない些事の堆積なのだと思った。
人が死ぬというのは、この棚が全部からになることなのだ。そう思うと確かにさみしい。

母は声が大きく、よく喋る方だ。誰かにこういうことを言われた、店員がこういう態度だった、といった不満を述べるのが好きだ。

「普通は」「普通はさ」「普通は」「普通なら」
「そういうとき普通は」「普通だったら」
「だって普通はさ」

普通とは何か? "多様性"という言葉が広まると同時に、"普通"という言葉を安易に使うべきではないという風潮になって久しい。
そうはいっても、やはり"普通"は便利な言葉だ。定義が曖昧だからこそ、様々な概念を示す言葉の"代わり"になるんじゃないだろうか。
それにしても、ここまで「普通」を連呼する人間も極端だなと思う。何か特別な信仰心のようなものがあるのかもしれない。

配偶者の父母にも会った。
二人ともすっかり耳が遠いようで、お互いの言うことが全然聞き取れていない。一度も話が通じないままラリーが終わることもある。横で聞いていて、申し訳ないがちょっと笑いそうになってしまう。
でもそれで成立しているように見える。たぶん、内容はよくわからなくても"声をかけ合う"という行為だけでなんとなく成立しているのだ。誰かと長く共に生きるということの、一筋縄ではいかないおもしろみを感じた。

私は幸福だ。
いまを自分の命の極限と感じる。