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いとしの未来ちゃん

シャープペンシルの芯が切れたので買いに行った。
シャーペンは子供の頃から普通に使っていたはずなんだけど、芯の太さに違いがあるなんてはじめて知った。いまは細かい字を書くことが多いから3mmにしてみよう、と思った。
新しい替芯をいままで使っていたペンに入れたら、上手く使えない。
……そりゃそうだ。芯の太さで外側の造りも当然変わるはずだ。自分はずいぶんぼんやり生きてるな、と思った。芯を買い直すことも考えたけど、いつから使っているかもわからない、小汚ないシャープペンシルの方を買い換えた。

3mmの芯ははじめ、ぽきぽきぽきぽき折れて、ストレスだった。自分には合わなかったのかなぁと思いながら、それしかないんで我慢して使っていた。
何の前触れもなく、あるとき気づいたら普通に書けていた。
そうなってはじめて、ちょっとだけ筆圧が強かっただけなのだと理解できた。これまで5mm芯しか使ったことがなかったから。たいした話じゃない。
人間は慣れる。

そういう感じのあほなことをまあまあの頻度でやっていて、若い頃は自分のあほさにいちいち落ち込んで、改善しようともしてたけど、最近はどうでもよくなってしまった。

巷で見かける手持ちの扇風機が即物的すぎて情緒のかけらもないから嫌いだ。地球が涼しくなって廃れてほしい。手に持つことすら億劫なのか、首から提げるタイプの商品まである。正気とは思えない。多少の不快もしらみつぶしに排除できてしまうから「まあこんなものか」という余白がどんどん許容できなくなっていくんじゃないかと思う。
はりきって薄着で出かけて、電車に乗ったときや建物に入ったときにめっちゃ寒いとものすごくがっかりする。一体何をそんなに冷やしてるんだ? このないがいの空気を混ぜたらちょうどよくなったりしないのか? 一回だけ、都心のビル群でいっせーのせで冷房を切ってみないか?
そんな簡単な話じゃないか。
私が寒さに弱すぎるだけかもしれない。

マックの受け渡しカウンターで、接客業務のない間「この作業はむずかしい」とか「これはうまくできた」とか店員さんどうしで話してて、ニコニコしながら仕事をしていた。
ぼーっとしてたらそんな光景が目に入ってきたからもうほんとうに世界が平和であってほしいと思って、こんな風にきっと世界中にありふれてるはずのさりげない日常のあたたかさを、どうか守ってくれ、なにより守られるべきものなんだ、だから争いなんてやめようぜって泣きたい気持ちで家に帰った。
持ち帰りのてりやきマックとナゲットはうまかった。
食べ終わって片付けながら、ゴミ多いな! と思った。

牛乳やちくわを買いに行くとき、なるべく賞味期限が古いやつを買う。日付の範囲内なら問題ないはずなのに、もしそれがひとつだけ残ってしまったら、他との差だけを評価されなんとなく誰からも弾かれて、いずれ本当にゴミになってしまのではと想像すると悲しい。
他にも形の悪い野菜とか、お菓子の箱の角がへこんだやつとか、ほんとうに恥ずかしいんだけど、そういうものに自分を重ねてもいる。
それ自体はそれとしてただ存在していることには変わりないのに、人間の都合で一度『食物』に分類されたものが、人間の都合で今度は『廃棄物』に分類される。それが「もったいない」とかいう次元の話じゃなくて、万物のことわりみたいなものに反している気がして据わりが悪い。

「たくさん作って余ったら捨てる。廃棄分のコストを考えても、現状このやり方で儲けが出てるんです」
数字上の利益だけを追い求めるのは時代遅れなんじゃないかと思っても、数字の競争で勝ってきた者がいまの世の中を作っていて、競争で勝ってきた者ほど、競争をやめる空気にならないようになんとか逃げ切ろうとするかもしれない。
でも外野が綺麗事を並べるだけでは何の役にも立たない。
新しいやり方に切り替えるのは簡単じゃないだろうし、不安定な過渡期の間もそこで働く人たちの暮らしは守らなきゃいけない。

この話に結論はない。

現代の快適さをそのままに、環境問題に配慮するというのは難しい。この世界は御伽話じゃない。何かしらの損をこうむる、不便をこうむる、面倒をこうむる、相応の対価を払う必要がある。
快適さに慣れた人間がわざわざそれを手放すにはそれなりの理由がいる。その落差を少なくしようと様々な分野の研究がされているのだろうけど、まだまだ長く不安定な過渡期は続くだろう。
逆にいえば、いまある快適さのために我々はすでに結構な対価を支払っていて、そのツケがじかに回ってくるまで気づけなかったんだろうと思う。

偉そうなことを言っても、実際は私も日々流されるがままだ。心に引っかかったことも、あふれかえる情報にたちまちかき消されてほとんど残りもしない。
贅沢だって大好きだ。パフェやフルーツサンドばかり食べている。

窓の外、自分の体内から激しい雷鳴が轟いて目を覚ました。自然現象を神々に喩えた人たちの頃を想像した。
夏が暑いことや夜が暗いことなんかを己の一部のように感じて暮らせると、有機体として清しい気持ちになる。そういうのもただ年をとって刺激に飽きただけなのかもしれないけど。
人類の営みのすべて、科学の発展と技術の進歩、快の向上・不快の排除、過剰な生産と破壊のすべても大いなる自然の一部と捉えるとしても、動物の肉体が自らの傷を治癒するように、人間の力でこの世界を癒せたらいいのに。地球を鎮めるには人類を滅ぼすのがいちばん手っ取り早いと誰かが言うかもしれないけれど、そんな風に奪い合わずに、互いの境界を尊重し合って共存できたらいいのに。

この星に人類が誕生したのは、地球が誰かに共感してほしかったからかもしれない。