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東風寅

情けない人間です。
いつもサボることばかり考えて。
できない言い訳ばっかり考えて。

頑張りたい気持ちはあるのだけど… なんて本当に?
「気持ちはある」って言ってれば、
実際に頑張らなくても時間が過ぎてくれると思ってないか?
ちょっと調子が出てきた日には、
きっとこの日のための助走だった! なんて都合のいい

それでも命が飢えているから、
言い訳を必要とするのは「納得はしてない」ということだ。
私は性根がええかっこしいだから、
何周考えてもやっぱりいちばんは「格好つけたい」ということだ。
自分に酔いたい。

いつか貴方に見つけてほしいと魂が叫ぶ。
でもそれは写実的に叶わなくても全然よくて、願いそのものがでかい言い訳をひとつ反故にできるから、私は貴方の背中をずっと追いかけている。






最近読んだ小説に、自分がずっと思っていたことがそのまま書いてあった。共感するとか、似たような悩みを抱えてるとかじゃなく、本当にびっくりするほどそのままそのままだった。
それを置いてもものすごく面白いし、好きな本だ。
いまある現実の社会では"異常"や"狂気"とみなされている行為や価値観が、丸ごと"常識"と入れ替わっている世界を描いた短編集だ。


十年前は平気で使っていた言葉も、いま聞くとヒヤッとする、そういうことが数えきれないほどある。なんの疑問も違和感もなく、むしろ喜んで多用していた過去の自分ごと封印して、「はじめからこっち側にいましたよ」みたいな顔をして震えながら暮らしている。
それは私自身の変化なのか? 世の中の空気の変化に流されているのか?
そもそも、この二つは別の事象なのか?

人間は置かれた環境、外からやってきた情報の影響を常に受け続けている。
適応できなければ淘汰、生き残ったものだけが結果。
昨日の自分を盾にはできないし、未来の自分を矛にもできない。

あなたはどこからどこまでが"自分の頭で考えたこと"なのか、どうやって判別しているのですか? 何から影響を受けなければ、"自分の人生"と呼ぶべきものになるのでしょう?
いかに時代が移り変わろうと、悪口は人の心の華でありつづけるだろう。好きなものの好きなところを語るのと同じくらい、嫌いなものの嫌いなところを言葉を尽くして語るのは気持ちがいい。


このところ「そもそも言葉ってぜんぶ昔の人たちからの借り物じゃないか?」と思って、なんだか自信を失くしてしまうときがある。何について、何をもって、どれだけ文字を連ねても"自分の言葉"なんてものは現実には存在しないんじゃないか?

『推し』という表現は自分では使わないけど、『好き』はよく使う。
でもそれは『推し』は最近(私の認識では"好き"や"ファン"の同義語として)定着した言葉で、『好き』は日本語を覚える頃にはすでにあった(私の認識する"ある感覚"を日本語でそう表現すると教わった)というだけ。より深く広く長く浸透している言葉だから"正統だ"と感じているに過ぎない。
もっといえば、だからこそ「推しとはなんぞや?」と考えるように「好きとはなんぞや?」と考える余地もなく、なりたちすら知らずに平気でいる。

言葉とは、記号でしかないのだ。
何度も打ちのめされているけど。

ブロックと同じだ。どう組み合わせて何を作るか?
赤いましかくのブロックは、赤いましかくのブロックでしかない。
青い長方形のブロックは、青い長方形のブロックでしかない。
他のものと組み合わせて何かを作ったときに、赤いブロックがイチゴに見えたり、焚き火に見えたり、青いブロックが川に見えたり、ビルに見えたりする。
さらに同じ作品を見ても、人によっては赤いブロックがトナカイの鼻に見えたり、てんとう虫に見える人もいる。それは話し合ってみないとわからないことだ。しかもお互いが「相手と自分は同じように見えている」と頭から信じ込んでいたら、いくら話し合っても最後までわからないままだろう。
もしも彼らがそれぞれ「てんとう虫という昆虫/トナカイという動物の存在を知らない者同士」だったら?

途方もない。

けど、たまんない。
こんな世界でちょっとでも誰かと言葉が通じたらそれはもう奇跡だし、最高だ。