異教

あんなすごいものを作れる人がいると知ると、こんな深いものを書ける人がいるんだと思うと、冷や汗が吹き出して体が震える。体温が下がって、呼吸が浅くなって、手足の先から感覚がなくなっていって軽い吐き気で奥歯がかみ合わなくなる。

自分は何も積み上げてないのに、苦しんでないのに、羨む資格など微塵もないのに、悔しい。自分にはそれを作れないことが悔しい。

つまんない映画を観ると腹が立つ。でもどこかで良い気分でもあるようだ。こんなつまんない映画も完成して配信されてるんだから、世の中にあるすべての表現が優れてるわけじゃないんだと思う。
私が何者でもないのは私がつまらないからじゃない、そう思って溜飲を下げる。
もしくは、私が作ったものがつまんなくても言い訳できるんじゃないかと思って安心する。

私にできないことができる人をジャンル問わずお門違いに分不相応に妬み続ける自分を恥じて隠してきた。
ずっと昔に読んだ小説に、自分にそっくりな人が出てきてぞっとした。いまならわかる。その小説の作者は、勇気を出してその人物のことを書いたんだ。

心の傷さえどこかで、羨ましいと思う汚い心を恥じて隠してきた。

この人より自分はまだ恵まれてるから弱音を吐いちゃいけないなとか、それで頑張れたり人に優しくできるならそれもいいのだけど、私はそういう気持ちがどこかで「この人は私よりましなのに弱音を吐いている」という苛立ちに繋がるから、思わないようにすることにしている。

自分の痛みを軽んじないことは、他人の痛みを軽んじないことに繋がってると、その理屈を信じてて、自分を貶めて楽になりたい時には思い出して踏ん張る。
自分を、嫌ってた方が楽だ。受け入れるのはつらい。でも私は人間で、自分を"例外"にはしたくない。

そんなことは無理だけど、世界中の誰にもなるべく優しくしたい。中でも優しい人には、より優しくしたい。
それも本当に人を想ってるわけじゃなくて、自分が悪者になりたくないだけなんだ。

自己愛の肥溜めから、誰かの幸せを願う気持ちを探してる。純粋な結晶になって生き残った小さな利他を探してる。これが私の本当の姿でも、苦しんでる人に、闘ってる人には、こんなクソなんか見せたくない。
それも相手を傷つけたくないからじゃなくて、自分が軽蔑されたくないだけなんだ。

全部が一枚の織物のように裏表で、縦横の要素が複雑に重なり合っている。どれだけ探しても自分の中には汚いものしか入ってないかもしれないし、金言が尊ばれてシェアされて、愚痴を垂れ流すのはもうアウトで、その中で「剥き出しである」こともひとつのスタイルみたいなって、私は頑張ってきたけど、本当の本当に自らの恥部を引きずり出すことはやっぱり全然できなくて、世の中様に嫌われたくない、バカにされたくない、汚い気持ちをあえて言葉にすることのどこまでが本心でどこに演出が混じっているのか、ここで他人に無防備にさらされる文字に置き換えてしまったらもう境界なんてわからない。もっともらしい言い訳と、配慮と逃げも判別できない。

何を信じていいかわからない。
自分を信じる自信がない。
誰も読んでないと思うことで自分を励ましながら書いて、でも誰かに届いてほしいと願う欲望もあって、自分が何をしたいのかよくわからない。

「褒められなくていい」なんて、ただカッコつけてるだけで本当は思ってないかもしれない、そう思ってそう書いたら、それは全然思ってなかった。
「ほんとは褒められたいけど、カッコつけてるんだ」こそがいま、世の中様に媚びるポーズとして生まれた表層感情だと、視覚的に言葉が入ってきたらわかった。ちょっとだけ「勝った」と思った。

とりあえず、絶対的に信じてるのは、自分が読み返した時に勇気がわいてくる文章だけをこの世に残すというルール。内容や技巧や前向きさはジャッジしない。