寵愛
いつか機会があったら「行うのが容易い善だけ選んで天国に行けるんなら誰も苦労はしない」と言ってやりたかった。
実家に行った次の日、身体が重くてなんとなく一日潰してしまう。
先月もそうだったな、と思った。ここ数ヶ月その傾向に甘えている。
「昨日の記憶さえなかったら起き上がれるのに」となぜかひたすら思っていて、そうやって極端な思考に走るのは危険な兆候だと思った。
激しい口論があったとか、きつい嫌味を言われたとか、別にそういうんじゃない。まあ普通だったと思う。ちょっとした頼まれごとを聞きに行って、ついでに昼ごはんを食べた。
小学生の頃、加害をしたことがある。
相手の子の家に母親と一緒に謝罪に行った。
最近になってそのことを少し話す機会があって、母親が「あの時のあれだけど、その子、アンタになんか嫌なこと言ったんじゃないのォ?」と言った。
事実だけを文字で抜き出しても非常に伝わりにくいと思うのだけれど、それまでの言動・態度の集積と、そのときの声の調子や節回しに、私は決めつけのニュアンス・あるいは「そうであれ」という要望を感じた。
相手の子は優しくて頭のいい人だった。
私がただ何かにむしゃくしゃしていて、なにも言い返さないその子を面白がって傷つけていただけだった。相手には一ミリの落ち度もない。
その子が学校に相談して、私が呼び出されて、事実を認め、謝罪に至った。
ほんとうに馬鹿だったし最低だけど、自分がしたことの意味が、その時は理解できていなかった。自分がどれほどその子を傷つけたか、その時は少しも理解できていなかった。
まともな対応をしてくれる学校でよかったと思う。私のしたことは許されることではないけど、学校に止めてもらってなかったら、もっとひどいこともしていたかもしれない。そう考えると怖くてたまらない。
私は一生背負うべき自分の罪を棚に上げて、激昂した。
事実関係をひとつも知らないくせに、はなから知ろうともしないで、「うちの子に限って理由もなくそんなことしないはず」というおめでたい超理論を信じ込むためにこの人間は、なんの落ち度もなく理不尽に一方的に傷つけられたその子を「人の嫌がることをわざと言ってからかう子」に仕立て上げようとしている。
でもそれも私の加害が生んだ結果のひとつであって、悪いのは愚かで未成熟だった私なのだ。相手には何も言われてないしされていない、私が理不尽に一方的に傷つけたことを説明した。
十代の頃、家出をしていて、メールのやりとりの中で私が激しい罵り言葉を書いた時、あとになってそれを「あれは誰かに言わされてたんでしょう?」と言ってきたこともある。
初期の投稿に書いたことがあったかもしれないけど、私がパニックを起こして激しく泣き暴れるような時に、彼女はしばしば「悪い霊が憑いている」という解釈をした。
つまり、本物の私はそんなことをしない、ということだ。
「うちの子はいい子」それが彼女の愛だ。
理解できない異常性や、汚らわしい悪意が現れたとしたら、それはうちの子の皮をかぶった偽物。本物のこの子はまともで、善人で、私の言うことを素直に聞けるいい子なんだから。私にはちゃんとわかってる。
届きうる情報が限られて、他の考え方も見当たらない、世代でもあったのかもしれない。
彼女が夕方のニュースを見て「こういう悪いことできる人、全然理解できない」と鼻で笑うのがどうしても我慢できなくて、どっかの誰かが言っていた「私はたまたま悪いことをする縁がなかったから、いまのところ罪人にならずに済んでいるだけなのだ」という言葉を持ち出して石のように投げつけた。
自分はまともで、善人で、捕まるようなことをする人間とは根本的に別の種類なんだと思っているように見えて腹が立った。
あとで冷静になって、私はいつでも母親を論破しようとしているのだと気づいた。
自分の正義で相手をねじ伏せようとしている。入る角度が違うだけで、やってることは「こういう悪いことできる人、全然理解できない」と大して変わらない。
どうしてこの家に自分みたいな人間が生まれてきたのか、不思議に思う。特に母と私は、互いがのびのび振る舞うとすぐに互いの不快の琴線に触れてしまう、そういう相性のような気がする。
だがもし彼女のもとでまっすぐに育ち、同じような感性・価値観・倫理観をもつ大人になっていたとしたら。そう想像すると、まあこれでいいのかな、とも思う。
宿命とか使命とか試練とか、私はそういう考え方が全然好きじゃない。その事象ひとつ取り上げたところで意味なんてなくて、どこかに生まれ落ちた個人が必要とするなら、自ら実践して己の中に意味を築いていくだけなのだと思う。
(一応書いておくと、宿命とか使命とか試練とかいう言葉で無条件に忍耐や受容を強いられるのは違うんじゃないかと思うだけで、ある誰かの実践の中でそれらの言葉が見出されるのは全然いい。なんだって、いまこの瞬間をよく生きようともがく誰かにとって救いになるなら全然いい。)
自分は、どっちつかずだなと思う。
通常これくらい親と気が合わないなら必要最低限しか接しないだろう。大人なんだから自分でそれを選べばいいだけだ。親離れできない、血縁関係に依存しているのは私の方かもしれない。
うちはごくごく平凡とまでは言えない、くらいの家庭環境で、そこらへんのことも無関係ではないと思うが、曖昧な感覚だ。子供の頃に自分がかけた迷惑を回収しなくちゃいけない、帳尻を合わせなきゃいけないと思っている部分もあるかもしれない。私の有責で話を終わりにしたくない。
また年齢的に「次に会うのが最後かもしれない」とは、かなり切実に怯えている。酷い態度をとったままそれが最後になったら、私は自責の念に耐えられないかもしれないと思うと、怖くてしかたない。
そういうものが最悪に絡み合って、自分で自分を追い込んでしまう。余裕がないときほど無理に接してさらに状況を悪化させてしまう。そうやって彼女との関係を何度もずたずたにしてきた。
自分で選択した行動のはずなのに、まるで何かを強いられているような気持ちで、自分を曲げて相手の要求を呑んでいるという被害者意識に酔いしれた。
私はご機嫌をうかがうという形で彼女をコントロールして見下し、優越感を得ていたのだ。その醜悪な快楽を、分厚い"被害者意識"の皮で自分の目から覆い隠していた。
私は彼女を尊重できない。
こんな些細な多様性も許容できない。
少なくとも、よっぽど精神的余裕がなければできない。私はその程度のけちな人間だった。それなのに、自分はもっと高潔になれるはずだと身の丈に合わない理想を演じて、独りで勝手に疲れ果ててしまった。
画面と向き合ってこれを書き始めるまで、頭の中で彼女のことを「あの人間」としか呼べなかった。
自分を正当化するために、心に余裕があれば自然に受け取れたはずの恩や、感じられたはずの感謝を真っ黒に塗りつぶして、彼女の優しさやよいところ、まっとうな面から必死に目を背けてきた。
誰かの言動が自分の心をすり減らすとして、その人に悪意がなかったら、自分を守るためには我儘になる覚悟をするしかない。
誰かに「自分の顔色で相手が従う」という体験を与えてはいけない、と思った。お互いのために、私は自分自身をいちばん尊重しなければならない。その勇気を持つべきだ。
ある小説の中で、主人公の男性が里帰りをするシーンがある。
高齢の母親が会うたびに同じ思い出話をする。何度も何度も聞かされるから、主人公はすっかりそれを記憶している。聞きながら、次に何を言うかわかるから、母親が話しやすいように相槌で誘導してやるのだ。
なんて優しい人だろう、と胸を打たれた。
何度も何度も同じ話をするところが自分の母親にそっくりで(年寄りは少なからずそういうところがあるかもしれない)、でも私はそれを鬱陶しいとしか思わなくて、半分無視をしたり、ひどい時はわざと聞いているような顔を作って内心ではバカにしたりしていた。
あることを、そういうものであるとただ受け入れるというのは、きっとああいうことなのだと思った。
いつか私も主人公のようになりたいと思う。
たまたま血が繋がっていたというだけで、母親を私の人間修行に付き合わせてしまっている。思い切って絶縁した方が親切なのかもしれない。
親との関係を切る、親切。
でもひとつ迷いどころがあって、実家に犬がいて、そいつとはたまに遊びたい。