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徒然 芸術は見ている世界の表し方か、生も死もないものの事か

どうしようも無く悲しい日だった。
一限から四限まで対面授業だったのに、何故か前日に二限に間に合う時間にアラームをセットしていた。
ナギが私の部屋に来て、布団の中に入ってゴロゴロふみふみしたのち、腕枕で寝てくれた。20分ぐらいしたら布団から出ていった。8時半になり、立ち上がる。リビングに降りていくと2階のどこかに居たナギが一緒におりてきて、私の足元でバタンと倒れる。ああ、かわいい、撫でて欲しい時の行動だ。
私が床に座ると直ぐに膝の上に座り、またゴロゴロ言い始める。
そしたら、サラも現れて私の膝に乗る。
2人して私の膝で幸せそうに眠る。

かわいい。

すると母に「あれ、一限からじゃなかった?」

……?
あ、ほんまや……
なんでだ……あれ?

一限がもう始まっていた。
なぜ私はそれを勘違いしていたのだろう。

なんでなんで

最悪じゃん。
馬鹿じゃないの。
本当にバカじゃんか。
ダメな人間、本当に最悪。

急いで家を出たところで二限には余裕があるけれど、一限を受けることは出来ない。

本当になんで私はこんなにもちゃんと出来ないんだろう。

失敗した自分を許せない。大したことないってわかってるのに、それでも許せない。自分が馬鹿であるということが許せない。嫌いで仕方がない。完璧でない自分が許せない。
それはやっぱり他人が馬鹿であること、仕事が出来ないこと、失敗することを見下してて馬鹿にしてて許せないからだろう。

そこまで理解してやっぱり自分が嫌いになる。

だけど、行くしかない。
二限は別に行かなくてもいいけれど、いい授業だから行きたい。先生と仲良くなれたらいいのに、と思っている。

とりあえず、教室に行って授業が始まる。
ふと、スマホを見るとバイト先から連絡が。

『土曜日の夜から暖房がついたままでした。ちゃんと消しなさい。ちゃんと気をつけなさい。電気代も無料じゃない。確認するように』

心臓が縮こまった。

最後に触ったのは私だった。
もう1人のバイトの子が消してくれて、そのあと「風量変えときます?」と言われて変えた。
2人で変えて、消した、つもりだった。
2人でリモコンを見てたことまで覚えている。
消してないわけない。あそこまでやっていて、消してないわけない。

でも、事実消えていなかったわけだ。私は何を見ていたのだろう。私の意識は何故そこで途切れているのだろう。
店長が何時に入ったか分からないけれど、30時間は付いていたはずだ。

となると、調べる。
1時間で33円が基本のようだ。
では、990円ぐらいか。

なら、天引きしてもらった方が気が楽だ。
経営も危うそうなのに、そんな私のミスで1000円も無駄な経費を使うなんて。

最悪だ。

私は何も出来ない。
こんなにも無能か。
生きるのが向いてない。
ろくでもない。ちゃんとできない私なんて不要じゃないか。
最低な人間だ。もうやだ。

涙が出てくる。苦しかった。
授業は進む。
ああ、もうなんなんだろう。私なんて。

店長は「天引きはしない。間違いはあるし、仕方ないから次から気をつけてね」と言ってくれる。
大丈夫だって、わかってる。
だけど、だけど、私が私を許せなかった。

授業には私含めて2人しか出ていなかった。
オンデマンド授業もまだ続行してくれているから、対面に来る必要はほとんどない。

こころとはなにか。

哲学や美学の教授だから、感覚を言語化してくれるのでとても心地がよく、そして知らないことばかりだと思える。

そして、授業終わりに先生が「これ良かったよ」とチラシをくれた。

大学の工芸学科ガラス工芸4回生の作品展らしい。
やっていることも知らなかった。
そして、今日は最終日だ。

もう1人の学生がこんなことを聞いた。

「めっちゃ良かったんですけど、『自然』としての良さは分からなくて、それはやっぱり年齢ですかね」

そして、先生は

「『自然』に対する捉え方もあると思うけど、やっぱりそれもあるかもしれないね」

と答える。

『自然』はこの世を包む全てだ。アニミズムについての勉強を去年して、結構なレポートを書いた。だけど、私はどこまで分かっているのか分からない。

先生はもう一度「本当に良かったから行くといいよ」と言った。

羨ましかった。そんなふうに言われるその人が。
展示会をすることができる人が。
羨ましかった。
私も良かったと言われたいと思う。

だけど、私は無能だからな。

心が凍っていた。自己嫌悪が激しかったから。

でも、とりあえず行こうとお昼を食べてから向かう。
ちなみにここでもお茶をこぼすという悲惨な目にあった。もう嫌だと思った。もう、嫌だった。

喧騒の学食から静かな校舎。
実験ホールという存在すら知らなかった場所を探す。

あった。この下にあるらしい。

『生と死が両立する』

私の後ろから2人組が来て、先に降りていって直ぐに戻ってきた。
あれ?やってないのだろうか。

私はそう思いながら人の気配のない場所に向かう。

暗い。

そこに、白い光が浮かぶ。

静寂。

心地良さに襲われた。

心が澄んで、体の中が雪解け水のような気持ちよさに包まれる。

そこには点々とガラス細工というのだろうか?作品が置かれている。

これらは紫陽花の形を模している。

動いているように感じた。
満開に咲き誇っていくように、そして、枯れていくようにひとつずつが生きている気がした。
光の加減か、この空間の力か、それとも作品の力か。
それらは花が開くように動く。
風に揺れるように動いているように見えた。

穏やかな音が流れていた。それはむしろ、静寂を演出していた。

私は1人、それを眺めている。
いや、浸っていた。

ドーム型の天井はどこまで続いているのかわからなくなる。ここがどこであるのかも、私が何をしに来たのかも、全て遠いなにかに思えた。
誰もいない。
あの騒がしい世界はここには存在しない。
誰もここを知らないのではないか。
そんなことを思う。

これらは、自然のものをガラスという無生物に閉じ込めている。
生きているように感じたけれど、これらは生きることも死ぬ事も出来ない。ただ、模してそこに存在しているだけだ。

だからこそ、生きていると感じたのだろう。
胸がスっとするような空気感を生み出すのだろう。
なにものでもなかったからこそ、何にでもなれるのだ。
そして、なったとしても所詮は作り物なんだ。
だから、美しいのか。

綺麗だった。

空間全てが。

私は何も分からない。クオリティは高いと思うが技術がどうとかは何も知らない。
だからこそ、この柵に隔たれた距離感の中で生と死から隔てられたものを感じることが出来たのかもしれない。

誰かが来て私は去る。

いい時間だった。
授業まで15分ほどある。
勿体ないけれど、今日しか行けないからと大学院生の美術展を見に行く。

たくさん素敵な作品があった。
私には書けない世界がそこにある。

そして、きっと彼らとは見ている景色が違うのだろうと思う。
そこには美しいものが広がっている。
捉える世界が違っているのだろう。

それは、私の見てる世界が劣っているということではない。
私の世界は私の世界で、ちゃんと見て、捉えて、表現できたのなら、どれだけ汚く醜く酷くても美しいものなんだ。
芸術とはそういうものなんだろう。

クオリアを表現する。

それだけを私たちは一心考えていかなければならない。

私は芸術大学にいるのだ。

私は、芸術をやっているんだ。

どこかで勝手に小説は芸術じゃないと思っていた。
というより、芸術的な小説は好きではなかった。
カッコつける小説よりも、面白いものを描きたかった。
だけど、きっと、私の世界を描けばそれは芸術になる。
自分と向き合い、社会と向き合い、そしてそれを表現したらそれは芸術なんだろう。
疎外感を感じる必要はない。

私は、やっていくしかない。

私を信じなければならない。
私の見ている世界をよく凝視しなければならない。
疑い、信じ、愛し、嫌い、そして考える。

そうすることで、きっと。

生理前の心のざわめきの中で、私はそんなことを考えた。

私はどこまで行けるだろう。

こちら、ガラス作品展示の方のInstagramです。

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