『ポストカード』(掌編小説)
夏の夜風が吹いていた。
6月に入って、街の木々がざわざわと落ち着きなく葉っぱを揺らしている。夏の訪れ、その予感に喜んでいるのが手に取るように分かった。そしてその木々の喜びに呼応するかのように、周囲の一軒家からは家族の楽しげな会話やテレビの音、そうして美味しそうな田舎の料理の匂いが漂ってきていた。
わたしは街頭に照らされた夜道を1人歩いている。
恋人が海外に行ってしまった。留学だ。
同棲を始めて約1年。彼のいなくなった家は、もともとわたしが1人で住んでいた家だったはずなのにやけに広く感じてしまう。
去年の夏の暑い日に、2人で選んで購入した風鈴が音を立てる度に家はさらに広がりを見せるようにすら感じた。
気づかぬうちに彼は、わたしにとって切り離すことのできない存在になってしまっていたらしい。
寂しさを紛らわせようと、ご飯が作るのが面倒になるといつも2人で足を運んでいた居酒屋に行ってみたが、それも寂しさを募らせるだけだった。
「あら、今日はお1人ですか? 珍しいですね」
「彼は今、留学に行ってしまっているんです」
店長さんとの会話はいつも、彼がしていた。お酒好きな彼の元に、店長さんはいつもやってきては「今回はこんなお酒を入荷してみたんですよ」なんて言って、彼がそれを注文する。そうしてこのお酒はなになにと合うだとか、このお酒はちょっと辛いだとか。
そういう会話を聞いていることを楽しんでいたというのも、彼がいなくなってから気づいたことだった。
マンションの入り口をくぐって、ポストを確認する。
いつもはたくさんのチラシ、大抵はわたしや彼にとって見るに値しないようなもので溢れているポストが、今日は珍しく、ほとんど空っぽだった。
ただ一枚だけ、何かが届いている。
そしてそれが何かに気づいた瞬間、わたしは店長さんから頂いたお土産の料理を落としてしまう勢いで、その便箋を手にとっていた。
海を越えて届いた便箋。差出人はもちろん彼だった。
今のわたしには便箋を破くことすら恐ろしくて、丁寧に丁寧に封を切る。
中には一枚のポストカードが入っていた。
「そうかぁ」
という言葉がわたしの口から自然と溢れていた。
入っていたポストカードは、彼の留学先なんてまるで関係ない写真。というか、ポストカードですらなかった。ポストカードだと思ったそれはただの写真。そして2人の男女が写された写真の左上。白い壁が写った部分にただ一言、「すぐに帰るよ」と書かれていた。
「すぐにって、あと3ヶ月は帰ってこないくせに」
落としてしまった店長からのお土産を拾って、わたしはわたし達の家に帰る。
「ただいま」
と呟いても誰も「おかえり」とは言ってくれない。だけれど視線の先で、写真に写っているのと同じ白い壁が「すぐだよ」と呟いた気がした。
「あと3ヶ月、わたしも頑張るからね」
白い壁を撫でる。
夜風に流された風鈴が小さな音を鳴らしたが、わたしはもうこの家を広いと感じることはない。
もうすぐ季節が変わる。
そして変わった季節のその先で、彼はもうわたしを待っているのだろう。
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