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『アリスのための即興曲』Vol.1 兎を追いかけて

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

これまでと、これからのストーリー

ご興味があれば、以下、どうぞご覧ください。
Vol.1  兎を追いかけて
Vol.2  架空の街の洋館
Vol. 3 レッスン
Vol.4  ロマンティックなワルツとオットの侵入
Vol.5  アリスの日記
Vol.6  甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ
Vol 7. 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女
Vol.8 天邪鬼な蛇
Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る
Vol.10 ひかりとあまい泥
Vol.11  アリスの日記『わたしは自由をおそれはしない』
Vol 12  僕はまっとうな人間になれない
Vol.13 坂本、オットに会う
Vol 14  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない
Vol15 虚構の家の幽霊
Vol.16 森田の秘密
Vol.17 ふたりのアリス
Vol.18 心臓がアリス、アリスと鳴る
Vol.19 ゴルゴダの丘を登れば
Vol.20 毒蛇を抱く
Vol.21 ヴィーナスの復讐
Vol.22 ふたつの真実
Vol23 おわりのはじまり


本編 Vol.1 兎を追いかけて


―きれいは穢い、穢いはきれい   シェークスピア『マクベス』

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 そのひとの家は僕の通う大学から一駅離れた区域にあった。表通りから一本外れた場所にあるその家は、蔦の葉に抱かれるようにひっそりと佇んでいた。それはひとの住んでいる家というより、朽ち果てた博物館を思わせた。おそらく明治時代あたりに建設されたのであろう大きな洋館で、くすんだ煉瓦色の壁に灰色の尖り屋根が乗っている。大きな飾り窓は時折陽のひかりを浴びて飴細工のようにきらめき、それはその家がまだ生きた人間を住まわせていることを証明する唯一の瞬間のように思われた。

 その家が汚らしいとか、不潔な印象を与えるというわけではなかった。幽霊屋敷のように暗くて近づきがたいというのとも違った。そうではなく、その家は壁に描かれただまし絵のように、何かしら現実的でない感じを見る者に与えるのだ。高い塀の向こうに隠れて人目につかないということもあるのだろうけれど、その家の近くに来ると、まるで異次元への入り口に向かうごとく磁場が歪んでいるように感じられた。

 ある日何らかの理由でその場所へ向かった人間は、少しずつこの世界の法則を忘れてしまうみたいだった。例えばその土地に足を踏み入れると、足の小指の先っぽが溶けてしまう。その家の住人と話をすると、言葉を一言ずつ忘れてしまう。そんな具合だった。そしてその人間は元の世界に戻ってくるのにずいぶんと時間がかかる。あるいは戻ってこられたとしても、完全に元の姿のままではいられなくなってしまう。まるで兎を追いかけて穴に落っこちてしまった不思議の国のアリスのように。

 そのようにして兎穴に落ちた人間を、不幸と言うべきか、愚かと言うべきか、僕にはわからない。僕にわかるのは、そうした人間に選択の余地なんてなかったということだけだ。それは僕を磁力のように導き、抗いがたい力で穴の底に引きずり込み、完膚なきまでにたたきのめした。そこから這い上がるのに僕は三年近くの時間を必要とした。その間に僕は大学を中退し、遠くの街に引っ越した。僕はその誰も知らない辺鄙な街にただひとつだけある学習塾でアルバイトを始めた。仕事をしている間は何も考えずにいられた。僕は熱心に働き、その塾でなかなか人気を得たように思う。ラブレターをくれた生徒だっていた。だが、そうした日々が僕の心を潤すことはなかった。砂漠を吹き抜ける風を誰にも止められないのと同じように。

 夜中に目を覚ますと、兎穴が足元にぽっかりと口を開けているのが見えた。そんな時僕は毛布にくるまり、赤ん坊のように震えていることしかできなかった。目をつぶって、何か楽しいことを思い浮かべようとした。生まれてから今日までにあった何か素敵なことを。小学校の運動会の徒競走で一位を取ったこと、はじめて好きになった女の子のこと、祖母がよく作ってくれた小豆粥のこと。けれどそうしたささやかな記憶の追憶の果てにはいつもあのひとが現れた。彼女が息を吹きかけると、それらの記憶たちは消し飛んでしまった。そして彼女は夜空の星のような素敵な笑みを浮かべ、また去っていった。


 そこに何かの意味を求めても無駄なのかもしれない。それはハリケーンが来て街中を破壊して去っていくように、何の理由もなく、ただ起こった。不幸な事故のようなものだ。けれど僕はなぜそれが僕の身に起こったのかを知りたかった。前世のカルマのせいであなたに不幸が起こりましたと、怪しげな占い師に断言してもらう方がマシだと思った。少なくともそこには原因があり、結果があり、ストーリーがある。しかし残念ながら僕には占い師の知り合いはいなかったし、占いを信じてもいなかった。だから僕は自分自身で物語を語ろうと決めたのだ。

 前置きがずいぶんと長くなってしまったが、兎穴に落ちてしまったあの日のことについて語ろうと思う。

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 それは夏休み明けのある日のことだった。九月とは名ばかりで、うだるような暑さの続く日だった。太った蝿が一匹、僕の腕に止まり、また去っていった。空気はもったりとした水滴を呪いのように吸い込み、息をするのさえ億劫になるほどだった。

 僕は大学三年生でまだ二十一歳になったばかりだった。事情があって祖母と二人暮らしをしていたけれど、それを除けばごく普通のどこにでもいる大学生だった。就職活動などする気はさらさらなく、かといって将来の夢なんてひとかけらも持ち合わせていなかった。「若いひとはいいね」とよく祖母は言っていたけれど、僕には何がいいのかさっぱりわからなかった。皺のないなめらかな肌や、じょうぶな白い歯や、叩いたって壊れそうにない躰など、若かった僕はそんなものに価値を見出せなかった。躰はいつか滅びるものだし、僕たちの誰もが死に向かって進んでいる以上、この肉体がゆがんだりねじれたりして、やがて故障を起こすだろうことは目に見えていた。そして時間だけが黄砂のようにさらさらと過ぎていった。

 勉強とバイトで疲れ切った躰に鞭打ってやっとのことで今日を終えればまたすぐに次の日がやってきた。今日と明日は生意気な双子のようにそっくりだったし、明日と明後日もまた同じことの繰り返しだった。それでも僕はきちんと授業を聴講し、バイト先にだって一日も休まずに行った。蜃気楼の中を歩む駱駝のように、左足と右足を交互に前に動かしていれば、きっといつか「未来」がやってきて僕を遠い場所に連れて行ってくれる。僕はそう思っていた。でも「遠い場所」ってどこなんだろう。そう考えると目の前が暗くなった。


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 その日、大学の食堂のすぐ脇にある、ぱっとしない廊下のぱっとしない掲示板でそのメッセージを見つけたのは、もちろん偶然だった。A4サイズくらいの白い紙に、ワープロ書きでこう記されてあった。


「フランス語会話おしえます。
 フランス人から、生きた会話をまなびませんか?
 料金 : 応相談。
 場所 : 当方宅にて。
 ご連絡お待ちしています。
 連絡先 : XXX@XXmail.com」


 それはぶっきらぼうといってもいいほどのメッセージだった。名前もなければ住所もなく、「フランス人」という情報があるだけで、男なのか女なのか、何歳くらいの人間なのかもわからなかった。おまけにそれは日本語で書かれていたので、場合によっては「フランス人」という点さえ怪しかった。もしかしたら高額な授業料をだましとる詐欺会社かもしれない。けれど僕は気が付いたらその紙を掲示板から音もなくはがし、四角くたたんでジーンズのポケットにしまっていた。
なぜそんなことをしたのかはわからない。第二外国語として専攻していたフランス語の成績が思ったより悪かったせいかもしれない。あるいは暑さのせいで意識が朦朧としていたのかもしれない。「太陽がまぶしかったから」という理由でひとを殺した『異邦人』のムルソーのように。けれど本当の理由は、おそらく僕自身が本能的に兎を求めていたせいだろうと思う。
めまいのするような深い闇に、耳鳴りのするほど濃い孤独の中に、それはいる。

僕は結局のところ、自分自身の影を求めて穴に飛び込んだのだった。

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(Vol.2へ続く)

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