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Vol.4 ロマンティックなワルツとオットの侵入

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。

あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。


これまでと、これからのストーリー

Vol.1  兎を追いかけて
Vol.2  架空の街の洋館
Vol. 3 レッスン
Vol.4  ロマンティックなワルツとオットの侵入
Vol.5  アリスの日記
Vol.6  甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ
Vol 7. 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女
Vol.8 天邪鬼な蛇
Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る
Vol.10 ひかりとあまい泥
Vol.11  アリスの日記『わたしは自由をおそれはしない』
Vol 12  僕はまっとうな人間になれない
Vol.13 坂本、オットに会う
Vol 14  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない
Vol15 虚構の家の幽霊



本編 Vol.4 ロマンティックなワルツとオットの侵入


 背中に彼女のひんやりとしたちいさな指の感覚があった。その指は僕をまっすぐに居間の奥へと導いた。居間の片隅には、先ほどのグランドピアノがやはり忠実なゴールデンレトリバーのように僕を待っていた。
「ねえ、ピアノを弾いてくれない?」
彼女は僕に微笑みかけた。それは真っ白なマシュマロがココアの中でおぼれていくような、人の心をとろかすような笑顔だった。そこで僕はピアノの前に座った。なんだか魔法にかけられたようだった。普段の僕なら、いきなり初対面の人にピアノを弾いてくれと頼まれたらちょっと躊躇するだろう。でもその時はそうすることがごく自然なことのように思われた。

 その時ピアノ教室で練習していたからという理由で、僕はセヴラックの『ロマンティックなワルツ』という曲を選んだ。

https://www.youtube.com/watch?v=WA4T8bFhqRE

  ぴかぴか光る鍵盤蓋を開け、左右の指を鍵盤の上に置くと、何かがかちんと音を立てた。そして僕の指から音がこぼれ落ちていった。指と鍵盤が一体になり、指の動きを鍵盤がリードし、それは止まることなくどんどん進み続けた。まるでピアノが生きているみたいだった。音は僕の意志とは関係なく駆け出していく。毛糸玉にじゃれつく子猫のように。でもそれは不快な感覚ではなかった。僕はこれまでピアノを弾いていて「楽しい」と感じたことがなかった。でもたぶんその時生まれて初めて、音に身を任せるという感覚を知ったのだと思う。メロディーが僕をひっぱり、加速し、ぐんぐんと遠くの知らない世界に運んでいった。演奏し終わった後、僕は何が起こったかわからなかった。たったの3分半ほどの短い曲なのに、指が痺れていた。彼女は熱烈な拍手を送った。
「ブラボー!」
コンサート会場の有名なピアニストにアンコールをねだる聴衆のような拍手の仕方だった。あんまり強くたたいていたので手が痛くなるんじゃないかなと僕はちょっと心配になった。
「あなた、才能があるわ」と彼女は言った。
「私、わかる。私はとっても耳がいいの。音を聞いただけで、その人が何を考えているかわかるの」
彼女のきらきら輝く瞳や紅潮した頬を見ると、どうやらそれはお世辞ではないらしかった。彼女は続けた。
「日本語もそうやって覚えたの、音楽みたいに。ほら、ピアニストが知らない曲を『ミミコピ』するでしょう。テレビやインターネットで聞いた言葉を、私は真似できるの」と彼女は言った。
『ミミコピ』という言葉が外国人の女性の口から出てきたことが意外だったが、彼女がそれを口にすると、とても可愛らしい響きになった。それにしても世の中には色々な才能があるものだと僕は感心した。僕はそういうタイプの人間ではなかった。語学だって音楽だって、きちんとしたルールに則って組み立てられるものだと思っていたし、そのルールを全身に叩き込まないことには先に進めないと思っていた。


「オットもほめてくれるのよ。君はすごい速さで言葉を覚えていくね、って」
と彼女は言った。相変わらず「オ」にアクセントをつけたまま。そのアクセントのおかしな『オット』という言葉が、何か気味の悪い虫のように耳にぬるりと入り込んだような気がして、僕は思わず耳たぶをひっぱった。でももちろん、耳の中には何も入っていなかった。ただそこに計り知れない空洞があるだけだった。その果てしない空洞をたどっていくといつか脳みそにたどり着くんだろうか。
「どうしたの?」と彼女は尋ねた。
「いや、なんでもないんだ」と僕は答えた。
きっと彼女は『オット』という言葉をテレビで一度も耳にしたことがないのだろうと僕は思った。


 もう少ししたらオットが帰ってくるから車で駅まで送らせるけど、と彼女は申し出てくれたが、僕は丁重に断った。なんとなく彼女のご主人には会わない方がいいような気がしたのだ。その代わり僕は坂道を雨に打たれながら延々と下り、駅まで三十分ほど歩かなければならなかった。

 駅には人影はほとんどなかった。二、三人の人々が所在なげに電車を待っていた。彼らはまるでプログラミングされているみたいに均一の間隔を保ってホームに佇んでいた。幸いダイヤはあまり乱れていないようで、電車はすぐにやってきた。電車はその架空の街を後にして走り出した。
「台風のため**線のダイヤが乱れております。お急ぎのお客様は**駅でお乗り換えください」と車内アナウンスがくりかえしていた。それは呪文のように眠たげに車内に響いた。そして数少ない乗客たちと一緒に僕は電車を降りた。まるでリモコンで操作されているみたいに、乗客たちはポケットから携帯電話を取り出し、同じ出口を目指して同じ速さで歩いた。


 帰宅すると祖母が食事の用意を整えて待っていてくれた。けれど僕はまったく腹が空いていなかった。よく考えたら彼女に勧められるがままに紅茶を五、六杯も飲んだのだから当たり前だった。体調が悪いと嘘をついて、僕は早々に風呂に入って横になった。目を閉じるとまぶたの裏にぽっかりと白いひかりが見えた。そのひかりの中にアリスのミルク色の肌や亜麻色の髪の毛が鮮やかに浮かび上がった。彼女の明るい声が星屑のように耳元でこだましていて、いつになっても眠れなかった。

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