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Vol.19 ゴルゴダの丘を登れば

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。
※『創作大賞』に間に合うようにピッチを上げることにしました。
 引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

これまでのストーリー

Vol.1  兎を追いかけて
Vol.2  架空の街の洋館
Vol. 3 レッスン
Vol.4  ロマンティックなワルツとオットの侵入
Vol.5  アリスの日記
Vol.6  甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ
Vol 7. 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女
Vol.8 天邪鬼な蛇
Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る
Vol.10 ひかりとあまい泥
Vol.11  アリスの日記『わたしは自由をおそれはしない』
Vol 12  僕はまっとうな人間になれない
Vol.13 坂本、オットに会う
Vol 14  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない
Vol15 虚構の家の幽霊
Vol.16 森田の秘密
Vol.17 ふたりのアリス
Vol.18 心臓がアリス、アリスと鳴る


本編 Vol.19 ゴルゴダの丘を登れば

 金色の銀杏の葉が風にひるがえる中、僕は歩いていた。躰中がちりちりと音を立てて指先から燃えてしまいそうだった。心臓の鼓動は吐き気をもよおすほど強く、無理やり乗せられたジェットコースターがぐんぐん頂上を目指すのを見ている時の気持ちによく似ていた。




 駅前の商店街を人々がのんびりと歩いていた。彼らはひかりの粒を全身にまとい、軽々とした足取りで僕の横を通り過ぎていった。誰もかれも幸せそうに見えた。秋の陽射しは思いのほか強くて、けやきの影がくっきりと地面に落ちていた。

 商店街を抜け、大通りから一歩逸れると、墓場のような静寂が広がっていた。モノクロームの風景の中、どこまでいっても同じような格好の家々が続いていた。僕は吸い寄せられるように曲がり角を曲がり、アリスの家を目指した。そして例の長い長い坂道を上っていった。ゴルゴダの丘を歩むイエス・キリストのように。

 僕はあの時の様子を、今でもありありと思い出す。目のくらむようなひかりと、黒い樹々のシルエット。時折、強い風が吹いて木の葉を揺さぶり、土埃が舞った。シャツが汗で肌にはりつき、スニーカーが砂で汚れていく。季節外れの蚊が僕の目をめがけて飛び込んでくる。僕は蚊を追い払い、向かい風を全身に受け、もがきながら進んだ。まるで全世界が僕の行く手を邪魔しようとしているみたいだった。けれど風が強く吹けば吹くほど僕は躍起になった。闇夜の中、一直線に灯を目指して飛んで行く虫のように。
 今、僕は思う。あの時歩みを止めていれば、僕の運命はずいぶんと違ったものになっていただろう。


 玄関口にアリスが立っていた。姿かたちはいつものままだったけれど、何か大事なものがすっぽりと抜け落ちてしまったような、輝きのない状態でそこに佇んでいた。化粧っ気はなく、顔色はいくぶん青ざめているように見えた。その日彼女が着ていたラベンダー色のセーターのせいかもしれない。 
「ひさしぶり」とアリスは言い、かすかに微笑んだ。
「ひさしぶり」と僕も言った。

 それからいつものように彼女は先に立って歩き出した。長い廊下を歩く間、彼女は終始無言だった。見慣れているはずの部屋が今日は見知らぬ場所のように感じられた。壁紙は苔むしたようにくすんでおり、家具たちは暗い物思いに沈んでいた。グランドピアノは冷たい沈黙の中に佇んでいた。天井から部屋を照らすシャンデリアのひかりだけが、泣きたいほどまぶしく見えたのを覚えている。

 彼女は乾いた声で何か飲むかと僕に尋ねた。それは儀礼的によそよそしく響いた。僕は何もいらないと言った。そう、と彼女は言い、白い紙とペンと携帯電話をテーブルの上に並べた。そしていつものように質問を始めた。最近、何か映画を観た?とか昨日の夕飯は何を食べた?など当たり障りのない質問をいくつかした後で、彼女はこんなことを尋ねた。

-Est-ce que tu es sorti boire un coup, récemment ? (最近、飲みに出かけた?)

心臓がごとりと音を立てた。喉がからからに渇き、声が貼りついてうまく出てこない。僕はやっとのことで《Oui》(はい)と答えた。 
「誰と?」畳みかけるように彼女が尋ねた。
「森田さん…、君のご主人と」
 それを聞くと、アリスの顔からさっと血の気が引いた。まるで一瞬にしてゾンビになってしまったみたいに。
「彼とどんなことを話したの?」彼女は掠れた声で尋ねた。
 僕は言葉に詰まった。
その場を取り繕うための言葉ならいくらでもあるはずだった。実際、彼と僕は色々な話をした。けれど適当な言い逃れをすることが出来ないほど、彼女の目は真剣だった。顔色は蒼白で、唇はかすかに震えていた。
「あのひとはわたしのことで何か言ったでしょう。違う?」
それは確信に満ちた声だった。ほとんど勝ち誇ったような声と言ってもよかった。なぜ彼女がそのことを知っていたのかはわからない。僕は否定する理由もなかったので、そうだと言ってしまった。
 彼女は椅子の背もたれに寄りかかり、ふーっとため息をついた。そして手にしていたペンと紙をテーブルに置き、しばらくぼんやりと宙を見つめていた。

-Lui, il est toujours comme ça. (あのひとはいつもそうなの)とやがて彼女は小さな声で言った。


 レッスンを続ける雰囲気ではなさそうだった。けれど彼女は日本語に切り替えるのを忘れているようだ。僕は全神経を集中させて彼女の言うことに耳を傾けた。小さく掠れた声ではあったが、ゆっくりだったので、おおよそ理解することが出来た。彼女は時折爪を噛んだり、祈るように手を組んだりしながら、ぽつり、ぽつりと話した。

「結婚して三か月くらい経ったころ、大きな喧嘩をしたことがあったの。よく覚えてないけれど、わたしが彼のスーツをクリーニングに出すのを忘れていて明日の出張に間に合わないとか、そんなようなことだったと思う。とにかく、わたしたちにとっては初めての諍いだったの。彼は当時大きなプロジェクトを抱えていたし、わたしは慣れない日本での生活に音を上げそうになっていた。つまり、お互いに余裕がなかったのね。それで、かなり派手に口論した ― というより、わたしの方が一方的にまくし立てた感じだったわ。でも、あのひとは決して声を荒げたりしなかった。そうじゃなくて、もっと別のやりかたで復讐したの」

そこで彼女は言葉を切り、宙を見つめた。モノクロ映画の中の登場人物でも目で追っているみたいに。その幻をかき消すように、彼女は軽く頭を振った。それからまた静かな声で話し始めた。

「その喧嘩の後、何事もなかったように何日か過ぎた。そしてある日、主人の仕事先のパーティーに招待されたの。気が進まなかったけれど、気分転換になるからって、半ば無理やり連れてこられた。そこである日本人の女性に出逢ったの。彼女はパリに留学経験があって、そのことで盛り上がってね。わたしは日本に来たばかりで言葉もままならなかったから、フランス語を話してくれるひとがいるのが嬉しくて。それからずいぶん親しくなって、お互いの家を行き来するようになった。でもある日、突然連絡が取れなくなってしまったの。メールも、電話も、SNSも全部ダメ。ブロックされているんだと気づいたわ。知り合いの知り合いを通じてやっとコンタクトが取れたから、なぜそんなことをしたのかって訊いたら、彼女、なんて返事したと思う?『森田さんから全部聞いたわよ』って」

アリスは僕の反応を確かめるみたいに、ちょっと言葉を切って僕の目を見つめた。僕は小さく頷いた。彼女はまた話し続けた。

「友人が言ったことは、信じられないことばかりだった。彼女によると、つまり、主人が彼女に語った内容ってことだけど、わたしは彼に向かってワイングラスを投げつけたり、死ねと言って脅したりしたそうよ。笑っちゃうでしょう?」

彼女はひとごとのように肩をすくめてみせた。それはどこか現実離れしていて、昼のメロドラマのワンシーンのように聞こえた。




「でもね、その友人は主人の言うことを信じた。わたしが何を言っても取り合ってくれなかった。彼女だけじゃなくて、これまでに出来た友達はみんなわたしの元を離れていった。そういうひとたちは大抵、主人の仕事関係で知り合った人たちだから、モリタ社長の言うことをみんな信じちゃうわけ」


「そんなのひどいよ」と言おうとして僕は口をつぐんだ。自分だってまんまと森田の口車に乗せられそうになったではないか。アリスは淡々と続けた。

「よく知らないひとから見たら、彼は完璧な人間のように見えるのよ。若くして社長になり、お金持ちなのにそれを見せびらかすでもない。ルックスもいいし、教養があって、善良な人間に見える。わたしみたいな外国人なんかより、誰だって彼を信じるに決まってる」

彼女は唇を嚙んだ。その唇に嚙まれたように、僕の胸はきりきりと痛んだ。一瞬でも森田のことを信じた自分を猛烈に恥じた。なぜ僕はアリスのことを信じてあげられなかったのだろう。

「彼の両親だって、まるで化け物を見るような目でわたしのことを見るの。そして陰で聞こえよがしに言うのよ、『嵩幸(たかゆき)もとんだ嫁さんをもらっちゃったねえ』って。それと言うのも、ある日わたしが頭痛がするからアイロンがけが出来ない、って主人に言ったせいなの。それをあることないこと付け加えて、彼がご両親に話したんだと思う」

「そんなことって…」僕は絶句した。
「そういうひとなのよ」彼女はさらりと言った。明日は雨が降るみたい、とでも言うように。



 僕にはよくわからなかった。一緒に暮らしている夫婦が、相手に対してそこまで意地悪になれるものなのだろうか。5年間の結婚生活を彼女はどのような思いで過ごしてきたのだろう。膿みのようにどろりとした憎しみで煮詰められた時間。それとも絶望も悲しみも蒸発した後の、乾ききった時間なのだろうか。

「もう慣れちゃったわ」と彼女は僕の考えを読んだみたいに言った。
「それにね、ビザの関係上、そうそうすぐに離婚ってわけにもいかないの。もしそんなことになったら、明日から住むところがなくなっちゃうもの。フランスに帰国することも考えたけれど、両親に迷惑をかけたくないし」

じゃあ僕の家に来る?という言葉が喉元まで出かかったが、一緒に住んでいる祖母のことを考えると気楽に提案するわけにはいかなかった。第一、彼女と僕はそんなことを言えるほどの仲ではない。



 シャンデリアのひかりが彼女の頭上でやさしく煌めいていた。どこから入り込んだのか、その周りを蛾が飛び交っていた。時折、じじっと嫌な音がした。彼女は物憂そうに蛾を見上げた。濁った黄色の羽をした小さな蛾だった。彼女が捕まえようと手を伸ばすより早く、それはどこかに飛び去って行った。彼女はゆっくりと頭を元の位置に戻し、けだるそうに話を続けた。

「幸せに生きることを、もうあきらめたの。わたしはここで、ただ息を吸って吐いてるだけ。明日も明後日も、このままの生活が続いていく。世の中にはもっと過酷な環境で生きているひともいるもの。でもわたしの躰はまだ動くし、お料理だって毎日作れる。それだけでもう十分なのよ」

「君の作った料理、おいしかったよ」と僕は言った。
たぶんそれが馬鹿みたいに聞こえるだろうなと思いながら。でも他に何と言っていいかわからなかった。
彼女はかすかに微笑んだ。目が潤んでいる。一瞬、今にも泣き出しそうなかたちに唇が歪んだ。彼女は唇をかみしめた。



「そりゃね、100点満点とは言えないかもしれない。でも、わたしはわたしなりに一生懸命がんばって生きてるの。彼が誰に何を言ったにせよ、それは本当のわたしの姿じゃない。それを坂本さんにはわかってほしいの」
彼女はまっすぐに僕の目を見つめた。淡いブルーの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ねえ、あなたもわたしを嫌いになっちゃった?」
僕は彼女を抱きしめた。自分のどこにこんな力があるのだろうと思うくらい、とても強く。
「嫌いにならない。嫌いになるはずがない。この先、どんなことがあっても絶対に」
自分のシャツが彼女の涙であたたかく湿ってゆくのを感じた。彼女は僕の胸の中で小さく丸まって、子どものように震えていた。嗚咽の合間に、サカモトさんサカモトさんと、僕の名前を何度も呼んだ。それから涙で濡れた顔で僕を見た。彼女の瞳は冬の湖のように、しんと深く澄んでいた。僕たちはどちらからともなくゆっくりと唇を重ねた。



 窓の外で風が吹いていた。この家にはじめて足を踏み入れたときのことを僕は思い出していた。あの日と同じように暗く湿った風が樹々を揺らしていた。日はすでに落ちていた。一番星の瞬きも、青白い三日月も無視して、僕たちは抱き合った。どこかで犬が鋭く吠えた。それは警笛のように耳にこびりついていつまでも離れなかった。


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