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Vol 18 心臓がアリス、アリスと鳴る

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

これまでのストーリー

Vol.1  兎を追いかけて
Vol.2  架空の街の洋館
Vol. 3 レッスン
Vol.4  ロマンティックなワルツとオットの侵入
Vol.5  アリスの日記
Vol.6  甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ
Vol 7. 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女
Vol.8 天邪鬼な蛇
Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る
Vol.10 ひかりとあまい泥
Vol.11  アリスの日記『わたしは自由をおそれはしない』
Vol 12  僕はまっとうな人間になれない
Vol.13 坂本、オットに会う
Vol 14  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない
Vol15 虚構の家の幽霊
Vol.16 森田の秘密
Vol.17 ふたりのアリス

本編Vol 18 心臓がアリス、アリスと鳴る


 11月になった。空はゴルトベルク変奏曲のピアノの音がばらばらと降ってきそうなほど青く、どこまでも澄んでいた。構内の銀杏の葉は金色に色づきはじめていた。キャンパス内を歩いていると、気の早い学生たちが早くもクリスマスの計画について話しているのが聞こえてきた。  

 ここ二週間ほど、僕はアリスとのフランス語レッスンをパスしていた。突然ぽっかり空いた時間に、レポートだの学期末テストだの就職活動だのといったものが一気に押し寄せてきた。けれど僕はそれらの些事に埋もれてゆくことをむしろありがたく思った。アリスや、彼女を取り巻く闇からできるだけ遠い場所にいたいと僕は願った。森田が語ったことを鵜吞みにしたわけではなかったが、かといって僕はアリスの何を知っているのだろう。彼女はそんな女じゃないと頭の中で声がしたが、それは薄ぼんやりとした黒い影に覆われてふっと消えてしまうのだった。


 一限目が休講になってしまったので、僕はカフェテリアに向かった。まだ朝の9時だったので室内は空いていた。自動販売機でカフェラテを買い、ぐるりと室内を見回したところで、見覚えのある後ろ姿が目に入った。栗色のショートボブとジャケットから覗く細い首筋は、中山伊織のそれだった。彼女はイヤホンをして何かを一心に聴いていたので、僕が近寄って来るのに気が付かなかったらしい。肩を叩くと、ひゃっとものすごい声を上げ、紙コップに入っていた飲み物を派手にこぼしてしまった。僕はとっさにそこらへんに置いてあった紙ナプキンを掴み、テーブルを拭いた。

「ごめん。そんなにびっくりするとは思わなかった」と僕はテーブルを拭きながら言った。
「坂本くんかあ。びっくりしたあ」彼女はイヤホンを耳から外して言った。
「何、飲んでたの?」
「ミルクティー。寒くなってきたからあったかいものが飲みたくて」
僕は中山伊織に待つように言い、自動販売機で新しいミルクティーを買ってきて彼女に渡した。
「そんな、悪いよ。私が馬鹿なだけなのに」
「でも、こっちがびっくりさせちゃったんだし。それにもう買っちゃったから」と僕は言い、半ば強引に彼女に紙コップを手渡した。
彼女はそれを恐る恐る受け取り、しばらく両手で包み込んでいた。まるで爆発するんじゃないかと怖がっているみたいだった。僕たちはしばらくテーブルを挟んで向かい合ったまま、立ち尽くしていた。



「元気?」と僕は尋ねた。
「うん、あの、おかげさまで。あれ、何言ってるんだろね。あの、坂本くんは?」と彼女が答えた。
彼女の口癖が相変わらずだったので、僕は微笑んだ。
「よかったら座らない?」と彼女は空いている席を指してくれた。そこで僕は彼女の目の前に座った。


  テーブルの上には携帯電話とリップスティックと手帳が置いてあった。朝の淡いひかりが窓から射し、カフェテリアをぼんやりと包んでいた。窓から鳥の声がかすかに聞こえてきた。ひかりの下でよく見ると、中山伊織の瞳の色は僕が思うよりもずっと明るい茶色をしていた。彼女は二、三度まばたきをした。そしてふう、ふうと何度も息を吹きかけてからやっとミルクティーに口をつけた。

「こうやってゆっくり坂本くんと話すのひさしぶり」と彼女は言った。
「ごめん、最近バイトが忙しくて」と僕は言った。
「そんな、謝ることじゃないよ。別に義務じゃないんだし」彼女は微笑んだ。
実を言うとバイトのシフトはいつも通りだったのだが、ジェットコースターのような精神状態で日々を過ごしていたので、とてもじゃないが誰かと話す気になれなかったのだ。



「最近、坂本くん、疲れてるみたいだからちょっと心配してたんだ」
中山伊織はミルクティーの入った紙コップを両手でくるりと包み、底にいる誰かに話しかけるみたいに言った。
「そう?」
「うん、ただ疲れているんじゃなくて、なんていうのかな、ここにいないみたいな感じ。物理的に躰はそこにあるんだけど、中には誰もいないみたいな」
彼女の描写は的確だった。最近の僕といえば、躰だけを大学に引きずってきてあとは全部お留守だった。頭も心も魂も、みんなアリスの元にあった。出席日数のことでとやかく言われるのは嫌だったのでとりあえずそこにいたけれど、本当の意味では存在していなかった。
 僕は首筋を搔いた。躰が小さな反乱を起こしているみたいに、急にむずがゆくなってきた。それから手の甲や足の指やらも疼き始めた。
「秋なのに蚊でもいるのかな」と彼女は言い、視えない蚊を目で追うようにカフェテリアの隅々まで眺めた。もちろん、そこには何もいなかった。



「さっきは何を聴いてたの?」と僕は尋ねてみた。
「え?」
「さっき、ここで何か聴いてたでしょう。ミルクティーをひっくり返す前に」
「ああ」と彼女は笑って、携帯電話 に入っているアプリケーションのオーディオブックを見せてくれた。画面には『不思議の国のアリス症候群』と記されていた。僕は一瞬ぎくりとした。
「わたし、心理系の授業を取っていて、レポートを書かなくちゃいけないの。自分の好きな童話をひとつ選んで、その主人公の心理を病理学的観点から説明せよ、ってやつ」と彼女は説明した。
「この作者によると、『不思議の国』で起こっている様々な事象は寓話的なかわいいお話なんかじゃなくて、主人公の少女に何らかの脳障害があって、彼女の目にはほんとうに世界がああいう風に見えていたんだ、って言うの。なかなか面白いよ」
「へえ」と僕は言ったが、それは自分の声じゃないみたいに遠くからくぐもって聞こえた。



 どうやら僕のゆく先々には何かしらアリスの物語に関する暗示が散りばめられていて、逃げたくても逃げられないようになっているみたいだった。まるで見えない誰かがロールプレイングゲームでも仕組んでいるみたいに。

 中山伊織は本の説明を続けていたが、僕の耳には何ひとつ入ってこなかった。彼女の小さな唇が、金魚のようにぱくぱく動くのをただぼんやりと眺めていた。彼女は時々前髪をいじったり、頭を軽く振ったりした。話し終わると、テーブルの上に置いてあったリップスティックで丁寧に唇をなぞった。つややかな丸い唇は少女のようで、大学生というよりキャンパスに遊びに来た中学生みたいに見えた。


「ね、面白いと思わない?」彼女はテーブルの下で足をぶらぶらさせながら言った。
「そうだね」と僕は軽く咳払いをしてから言った。なるべく上の空みたいに聞こえていないといいなと願いながら。
それからふと思いついて尋ねた。
「ねえ、もし、もしもだよ。中山さんがその少女みたいになってしまったらどうする?つまり、急に自分の躰が大きくなったり、小さくなったり、不思議な生き物の声が聞こえたり、姿が見えたりするという体験をしたとしたら?」
彼女はちょっとびっくりしたみたいにまばたきをしたが、目をぐるりと上に向け、考え始めた。彼女はしばらくその世界に思いを馳せているようだった。時折、視えない存在がそこにいるかのように空中の一点を指さしながら。
「よくわからないけど、たぶん、とても不安になるんじゃないかな」としばらくして彼女は言った。
「不安?どうして?」
「だって、自分が見ているものや聞こえているものが本当なのか、幻覚なのかわからないんだよ。例えば、今、ここにこうして目の前にいる坂本くんだって、実は私の脳内で勝手に造り上げられたアバターか何かなのかもしれない。ミルクティーの味も、窓の外から聞こえてくる鳥の声も、全部錯覚なのかもしれない。そう考えると、何もかも信じられなくなる」
そう言って中山伊織は自分の腕を抱きしめた。まるで異次元に足を突っ込んでしまったひとのように。彼女は眉間にぎゅっと皺を寄せ、テーブルの上の空の紙コップを睨んでいた。
「大丈夫。僕は本物だし、君が飲んだミルクティーもちゃんとこの世界に実在しているよ」
と僕は言った。彼女は笑って、そうだよねと言った。



 そこで一限終了のチャイムが鳴った。学生たちが教室から出てくる足音や、楽しそうな笑い声があちこちから聞こえ、のんきな空気がそこらに漂い始めた。
「わたし、二限目がその例の心理学講座なの。もしよかったら、坂本くんも受けてみない?」
彼女は身の回りの品を小さな革のバッグに入れながら言った。それは赤ん坊の頭の大きさぐらいで、その中に必要なものがすべて入ってしまうなんて信じられないくらいだった。あるいは彼女のバッグの中で事物はかたちを自由自在に変え、伸び縮みしながらすっぽりと収まってしまうのだろうか。
「ちょっと自習課題があるから、ここに残って勉強していくよ」と僕は言った。
「そっか、残念。じゃ、またフランス語の授業でね」
彼女は明るく笑った。それから立ち上がり、空の紙コップをごみ箱に向かって放り投げた。きれいな放物線を描いて、紙コップはすとんとごみ箱に落ちた。彼女は小さくガッツポーズをした。そしてカフェテリアを出て、廊下を曲がるあたりでひらひらと手を振ってくれた。僕も小さく手を振り返した。



 学生たちが数人、カフェテリアに入ってきた。彼らは騒々しい物音を立てて自動販売機で飲み物を買い、中央の席に座っておしゃべりをはじめた。いつもだったら鬱陶しく感じられるそれらの音が、今日はなつかしい夢の中で響いているみたいに感じられた。彼らはアルバイトやレポート課題のことについてぼやいていた。ああ、なんか面白いことないかなあ、と誰かが大きな声で言った。

 僕が今まで知っていた世界は、彼らのそれと寸分たがわぬ世界だった。小さな四角い壁の中で、何もかもがきちんと秩序立って行われていた。カレンダーを見れば明日の日付が書いてあり、その一週間後にはレポート提出期限日が、さらにその一か月後にはテストの予定が書き込まれていた。時間は一直線に進んでいたし、物事の輪郭は明確で一定だった。僕はその狭い世界の中に入って目をつぶり、何もかもを忘れてしまいたかった。巣穴にもぐりこむアルマジロのように。


 その時、ジーンズのポケットに入れておいた携帯電話が振動した。取り出してみると、メールが届いていた。僕はぎくりとし、それから胸のうちにかすかな甘い予感のようなものを感じた。尾骨のあたりがぴりぴりと痺れていた。深呼吸をし、震える指で「開封」ボタンをクリックした。

「さかもとさん、

こんにちは。
お元気ですか?
しゅしょくかつどお は どうですか?
いそがしいみたい ですね。
でも、さかもとさんが いなくて さびしいです。
こんどは いつ レスンに きますか?

アリス」

  水から引き上げられた魚のように、僕は急に息ができなくなったように感じた。心臓が激しく蠢き、躰中の血が沸騰していた。泣きたいのか笑いたいのか吐き気がするのか、自分でもよくわからなかった。躰がとても熱かった。心臓の打つ音は、アリスアリスと言っているみたいだった。


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