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愛すべき・・・

人間の愚かさに気付いた時、どう思うだろうか。この世界は、競争社会なのは確かだ。しかし、その競争は望んだものなのか。その競争は、自分が自分に課したものなのか。その競争は、本当に必要なのか。

知らず知らずのうちに誰かが設定し、その誰かに与えられたものだということは完全に有り得ないのだろうか。その競争の頂点に居るのが誰なのかも知らないのに一体何と競争しているのだろうか。皆、現実が見えているとどうして言えるだろうか。本当は、結論を誰も知らないに。

そんな中で戦う意味はあるのだろうか。村、町、市、区、県など、国という単位の中にあっては犯罪になることも、国家間である場合には栄誉にすら成り得る。そんな曖昧な競争の中で、本当に戦う意味はあるだろうか。

コミュニティの単位の中にある常識は、根源を支配するほどの認識であるだろうか。誰に教えられたもので誰に信じ込まされたものだろうか。考えたことはあるだろうか。日本人は、二次元の中でリミッターを解除しその世界の中で愉しみ、単位の中で行えば犯罪になることを実際には行わずその欲求を発散している。

ほとんどの人間は、本質を見抜きながら骨抜きにされているのだ。その文化とも云うべき処理方法に世界中が賞賛し広まりつつある。そして、その方法を利用しようとして、かつてのテレビや映画の世界と同じことが起こり始めている。

既に全ての単位が取り払われていて、競争など無意味である可能性はないのだろうか。誰であればそれを知っているのだろうか。本当に純粋なバランスの上にあって頂点など無いと言い切れるだろうか。つまり、この世界は誰かが作ったもので、または偶発的にそして必然的な計画などによって、創り出されたものであり、宇宙は自分だとか世界は自分が創り出したなどというスピリチュアルこそがマヤカシの可能性すらあるのではないか。

二次元の中に真理を見出すのは良いが、完全に取り込まれてはならない。カプセルを飲んで選択する機会など与えられることもないのだから。時々起こり得る異変は、奇怪な事件としてその統制によって引き起こされる。

高く積まれた精神抑制の壁の外にこそ解がある。しかし例えその壁を越えられたとしても、絶対に他者に見られてはならない。何故なら、異端であることは犯罪と見做されるからだ。数千年の人類の歴史の中には、隠れて居なければならない時が幾度もあっただろう。

そんな、