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2024年10月の記事一覧

波とサンダル

波とサンダル

 子どものはしゃぐ声や海中狐の鳴く声を僕は聴いていた。空はまだ明るく、砂浜に忘れられた黄色いサンダルが波の鰭に触れて光って綺麗で、髪の短い女の子が足裏の砂を払って彼の元へ歩いて行くのが見えた。ふたりの足取りは砂浜に足跡を残すけれど、白い波はたちまち足跡を消してしまう。海岸はどこまでも広く、波の白さがそれに沿うように寄せては返すこといつまでも繰り返していた。僕はその波の透明な揺らぎをいつまでも手のひ

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光の波にいた

光の波にいた

 今朝、まだ温度のない景色のなかに彼はいた。波にひざまで浸かって、水平線の先を見ているらしかった。死んで打ち上げられた海中狐の白い尾毛が波の先に触れた。
 日は昇り始めた。光が水面に広がって赤い。

剥製

剥製

 公民館のポスターに円周率を求めたたぬきの剥製がガラスケースの中にあって、それを見た無重力猫の一匹がすごく気を病んで寝込んでしまった。それについて町長は今朝コメントを発表し、無重力猫には大変すまないことをした。申し訳なく思っている。と禿げた頭を下げたのだけれど、僕は町長の隣にいたメガネ美人秘書の胸の谷間が気になってそれどころではなかった。

春と飛行機

春と飛行機

 春、身構えた。杭の出たバットで振りかぶった空には飛行機雲が線をひいて山を越えて、ずっとずっと遠くの国へ続いていた。
 君は飛行機に乗ったことありますか。ぼくは、ある。死ぬかと思った。窓から見た雲の大地がどこまでも広がって、その一番奥で太陽がサンサンに光っていたのが目に焼き付いている。その景色に対して僕の小ささたるや。情けなく思います。

博物館

博物館

 博物館には特別な緊張感がある気がする。それは例えば市立の大きな図書館みたいなもので、私語はもちろん、レジ袋のかさかさという音や鼻をかむ音、靴音、服の擦れる音にだって気を遣わなければならない。まるで息が詰まりそうだ。僕らは眠った子どもを起こさずに歩くみたいに慎重な足取りで館内を見て回った。プーリネンスの王冠があり、先の折れた杖があった。それらはきちんとしたガラスの箱に収まっていた。照明の穏やかな光

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ずり落ちるトートバッグと今朝の目玉焼き

ずり落ちるトートバッグと今朝の目玉焼き

 肩からずり落ちそうなトートバッグをずり上げた。僕は今朝焦がした目玉焼きのことを考えていたのだ。それは黄身がちょうど白身の真ん中に落ちて、昇ったばかりの太陽みたいだ。きのう新一星が持っていたハンディタオルとそっくりだった。
 またバッグがずり落ちる。身幅の大きいスウェットに、小さなトートは扱いづらい。

夜の名残り

夜の名残り

 朝っぱらから夜についての歌を聴いていた。ヘッドフォン越しに流れてくるぬるくて優しい音の波に脳が揺れるのを感じながら、僕は遡上する鮭のように駅の人混みをかき分けて歩いた。少しだけ猫背になって、歩くリズムにヘッドフォンの曲調が乗り移る。一限には間に合いそうにもないから、このままのんびり行こうと思った。

どうでもいい日々たち

どうでもいい日々たち

 どうでも良くなって来ていた。彼女との関係も、今日の天気も、盗まれた傘の行方も、税金の値上がりも、上司のジャケットについた皺も、みんなどうでも良かった。ひとりで南の島まで行って、飽きるまで遊んで、寝て、食べて、女の子を札束で引っ叩いたり、引っ叩かれたりしたかった。

編む彼女をみる

編む彼女をみる

 月の狩人の放ったとされる弓矢の先が展示されるらしく、ハテノ博物館はものすごい行列だった。
「三時間待ちだって」とケプカが云いました。ケプカは同じ学部の友人で、今は彼氏と同棲している。
「帰ろうか?」とわたしは提案した。見たいと言い出したわたしに彼女を付き合わせることに少なからず罪悪感を感じていた。
「いいよ、わたしも見てみたいし」とケプカは云った。「後ろもすごいし。ここで抜けたらもったいないよ」

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生きてばっかり

生きてばっかり

 君はなんで生きてますか。
 私は一体なんのために生きてるのか、もうさっぱりわかりませんでした。今この国は夏で、一日じゅう部屋にいる私は昼間だってカーテンを閉め切ってエアコンの冷たさに浸されています。この風には、お金がかかっている。先月の電気代は八千と五百円。この代金のほどんどはこの風のせい。ポストに年金未払いの督促状も届きました。国保もすごく高くて、税金や食費、光熱費に水道代、携帯料金にWi-F

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トルコにいる野良猫

トルコにいる野良猫

 三次元的な愛、と僕は思った。画面越しに見る平面的な性愛とは違う、もっとリアルで生々しい、核に迫る愛。女の腕の柔らかさも、手の小ささも、耳の形も、乳房の丸みも、背中から腰にかけての曲線的なくびれも、尻も、肌越しに伝わる体温と共に感じていた。部屋は暗く、閉じたカーテンの隙間から温度のない景色が見えた。いつの間にか夜明けを越していた。
 隣で眠る女は泣いていた。なにかいるかと訊いたら、女は何もいらない

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祖母の地下蔵

祖母の地下蔵

 八畳ほどの小さな地下蔵は土埃を被った木箱の山やガラクタばかりで足の踏み場もない。もう何年も手付かずの場所で、ガラクタは外の世界から忘れられたようにじっとしていた。きっと売ったって価値のないものばかりだ。自転車の車輪や日焼けして茶色くなった文庫本の束、空いたジャム瓶に入った旧製の銀コイン五枚(これはいくらか売れるかもしれない)と、鳩印のクッキー缶には死んでかさかさになった甲虫とふんが入っていてぞっ

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