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料理を上達させる思考法:レシピはバイブルじゃない、テンプレだ

「料理ができる」の定義を「自力で味覚と腹を満たせる何かを作れる」だとするならば、僕は自信をもって「料理ができます」と言うことができます。
それどころか、料理が得意だと言ってももはやいいかもしれない。
自分のつくった食事のまずさにうんざりすることも、献立に困って途方に暮れることも、最近ではもはやだいぶ少なくなりました。
冷蔵庫に余った食材を適当にありあわせてちゃちゃっと、で十分満足いく晩ご飯をつくれるくらいには、僕は料理が得意です。

どこかの雇われシェフになれるとか、フルコースを一人でつくれるとか、そういうレベルを念頭におかないのであれば、「料理ができる」というのはそう難しい話ではありません。
15分そこらの時間で満足な食事がつくれるかどうかは、簡単なスキルと習慣化の問題であって、才覚だとか気合いだとかは別に関係ないと思います。
むしろ「料理には才能が必要だし、根気よく学べる粘り強さがなくてはいけない」という思い込みのほうが、料理の上達をよほど阻みます。
自分の料理なんて簡単でいい、全然大したことなくていい、とゆったり構えるくらいのほうが、満足いく自炊のスキルを身につけるうえではかえって役に立つんです。おそらく、という話ではありますが。

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ところで、僕はここ最近、料理をするときにレシピというやつをほとんど見ていません。
1週間あれば、1日、いや1食の1品についてネット上のレシピ記事を見るか見ないかという程度。
それも、料理をしているあいだじゅうずっと張りつきっぱなしで眺めているなんてことはありません。
ざっと過程と材料を見たら、ああなるほどそういう感じね、で適当に調理して終了。それでも大きく失敗することはほぼありません。

慣れてくれば、レシピなんてなくたって料理はできるようになります。
何も見ないで15分、食材と基本的な調味料さえあれば、満足いく食事はこしらえられます。
必要なのはレシピそのものじゃない、レシピを解釈できる読解力です。
それさえ身についていれば、レシピをざっと見ただけでそれらしいものをつくるのは簡単ですし、それどころかレシピを応用・改変して即席のオリジナルな(名前らしい名前がつかないという程度の意味で)料理でお茶を濁すことだって可能になります。

幸い僕はいろんな条件に恵まれたことによって、自らが不便しない程度までには料理のスキルを高めることができました。
家からの徒歩圏内にはスーパーが3つもあるし、そのうち最寄りの一軒はせいぜい6〜7分でたどり着ける距離にあります。自転車なら5分もしません。立ち漕ぎすれば3分も掛からないかもしれない。
パートナーの存在も大きいです。食べてくれる相手がいることは、料理上達の何よりのモチベーションになります。
僕も独り暮らしの頃は自炊なんててんでできませんでした。今にして思えば信じられないことですが、ほとんど毎日コンビニ飯かすき家の牛丼ライト健康セットでやりくりするのが常でした。

筋トレの習慣や断食の経験によって、食へのハードルがある意味で下がった(ある意味では上がったかもしれませんが)のも影響しているかもしれません。
人間そんなにもりもり食べなくても満足できるし、派手な味付けは必ずしも必要ない。
エンタメとしての食と健康な生存のための食とを分けて考えられるようになったことで、質素なコストパフォーマンスの高い食事を是とする価値観が身についたことは、料理に対する考え方をシンプルにするうえで、大いに役立っていると思います。

そんなこんなでいろんな条件に恵まれたおかげで、僕にとって料理とはいまや簡単な作業、習慣化されたちょっとしたタスクでしかないものとなりつつあります。
前置きが長くなりましたが、この記事ではそんな習慣づけの中から得られた知見の端的なまとめ、手っ取り早い料理上達のために役立ついくつかの考え方について紹介してみたいと思います。
この記事をすでにここまで読み通してくださった理屈好きな方々であれば、きっとこの記事からなんらかのことを学び取って、今後の食生活の運用に活かしていくことができるでしょう。

1. 材料や工程を「意味」に分解する

今回最も書きたかったのがこれです。
これができればレシピがなくても料理はどうとでもできる、と極論僕は考えています。
この材料はどういう機能を発揮していて、この工程は何を狙っていて、といったことが把握できてくれば、そのカスタマイズで料理のバリエーションはいかようにでも広がるはずだからです。

そんなに難しい話ではありません。
たとえば、「炒める」って具体的に何をすることだろう、と考えてみるのです。
油を引いたり引かなかったりしたフライパンなり中華鍋なりの上で、水分を出さずに食材を加熱する、といった分解の仕方が可能でしょう。
そしてこれにともなって、食材が香ばしくなったり、コゲがついたり、水分が出たり、逆に汁気が飛んだり、副次的な作用がさまざま得られるわけです。

あるいは、トマトを料理に取り入れるとどんな効果が生じるでしょう。
甘くなったりちょっと酸っぱくなったり、水分が出て料理全体が少々汁っぽくなったり、なんか全体的に赤くなったり、(主観的には)若干テンションが上がったり(トマトが好きだから)、といったさまざまな効果が得られると思います。
あとは、サラダに入ると葉っぱばっかりのときより飽きが来にくくなるな、とか、オイリーなパスタに加えると爽やかな酸味のおかげで食べやすくなるな、とか、そういう個別的で雑多な印象もあったりするでしょう。
トマトはトマト、で終わるのではなく、トマトって料理においてどんなことをしてるっけ、自分はそれに対してどんな印象をもっていたっけ、と意識的に思い起こして印象を形作っておくと、引き出しが増え、料理が単なるマニュアルの実践から、創発的で主体的な作業に変貌していくのです。

思うのですが、クリエイティビティって別に「誰も思いついたことのないようなオリジナリティ溢れる何かを創り出すこと」じゃないですよね。
むしろ要諦は「手元にある生の素材を組み合わせて何かを生む」という過程にあるのであって、そういうプロセスは世の中にいくらでも転がっています。
みんな大好きスティーブ・ジョブズのconnecting dotsにしたって、要は「自分がすでに知っていることをいかに組み合わせるかがカギだ」という話であって、未知のものを明後日の方向から引っ張ってこいなんて話じゃない。
平凡なテフロン加工のフライパン、油は安いサラダ油だけ、調味料はさしすせそ、冷蔵庫には半額の豚バラとキャベツともやし、なんて状況を「クリエイティビティと程遠い」と嘆いて意気消沈している人がいるとしたら、あなたそれはちょっと違うわよと両肩を揺さぶってお伝えしたいところです。

料理の要素を意味のレベルまで分解したら、あとは自由に組み合わせたらいいんです。
食べやすく切る、火をしっかり通す、柔らかくなるまで待つ、塩味をつける、塩味を補う味をつける。これでもたぶん一品完成できます。
実際には一つの要素が複数の意味をもったり、あるいは意味として捉えきれない性格(言葉に表しがたい独特の風味、なんて最たる例でしょう)を伴っていたりしますから、組み合わせ方を変える際には、それらに気を払うことになるわけですが、それこそがまさに料理にバラエティをもたらし、料理を楽しくするわけです。
普通ここではじゃがいもを使うらしいけど、代わりにカボチャを突っ込んでみたらどうなるだろう……?なんて試行錯誤をいくらでもやったらいい。
そんな些細な偏差が味わいの違いにつながり、料理のセンスの向上につながるのです。

「いつも同じ料理ばっかでつまんない」とぼやかずにいられないのは、レシピや料理の過程を平面的になぞることで満足してしまっているからかもしれません。
カツ丼のたまねぎを新たまねぎにすると何が変わるか、なんて試してみるだけでも、思わぬ発見が得られたりするものです。
レシピの言葉や調理のセオリーを分解しては自力で組み立ててみる、そんなプロセスとして捉えなおせば、料理はぐっとハードル低い、それでいて楽しいものになると思います。

2. 「料理は対照実験」と心得る

1.で述べたところとも大いに関わります。
分量はレシピ通りじゃなきゃいけない、ニンジンと書いてあったらニンジンを買ってこなくてはいけない、なんて考える必要はないんです。
家のカレーにニンジンが入っていなかったからって、誰があなたにクレームを付けるでしょう?
クレームを付ける奴がいたとして、そんなのは「嫌なら食べなきゃいい」の一言でのせばよろしい。

……のせばいいは言いすぎかな。
僕ならもう少し平和的でスマートな解決を目指したいですが、まぁそこは各々の考え方でしょう。

本題に戻ります。
そう、料理は対照実験なのです。
アサガオの鉢を二つ用意して、一つはひなたに、一つは日陰に、他は極力同じ条件で揃えて咲き具合を見比べようという、日陰に置かれたアサガオからしたらたまったものではないだろうあの実験と同じことなわけです。
スタンダードの調理法から何を引いたら何が変わるか、逆に足したら何が変わるか、見極めをつけてデータを蓄積することこそが、料理上達の欠かせない要諦であり、毎日のルーティンを彩る醍醐味といえましょう。
この間はあれだけ入れてしくじったから今日は少なめ、とか、試しにニンニクひとかけ入れたらどうなる、とか、そういうトライアンドエラーの積み重ねが、調理の上達のみならず、アイデアの広がりや応用力に結びついていくわけです。

思うに料理ができるかどうかを決めるのは、どれだけのレシピが頭に入っているかではないのです。
もちろん押さえるところを押さえていることは大切ですが、あくまでそれは「ハブ」のようなもの、迷ったら参照すべきスタンダードだと思っていい。
肉じゃがと豚汁のあいだにあるのは底の見えない真っ暗な断絶などではなく、微妙で曖昧な差異の集積です。
二つの料理を別のものたらしめている細々としたプロパティに少し手を加えてやったなら、それだけで第三の思ってもみなかった「食える何か」が生まれるかもしれない。
模索の余地は限りなく存在するのです。少なくとも毎日の晩ご飯に困ることがない程度には。

レシピから外れることを恐れるのはやめましょう。あれはバイブルじゃない、テンプレートです。
どこを押さえ、どこを外すかを学ぶ素材としてレシピを使えばいい。要は「適当でいい」んです。
匙加減を探る合理性に気づけたならしめたもの、自分で自分を食わせるくらいの甲斐性は遠からず身につくでしょう。

3. 食べるのも料理

最後に一つ。
外食をせよ、うまい既製品を食らえ、贅沢などと思わず他人のつくった飯を食え。

矛盾して聞こえるかもしれませんが、そんなことはないんです。
歌が上手くなりたきゃ上手い人の歌を聞く、それと理屈は何も変わらない。
自分の発想の外にある「美味い」を知るには、他人からいただくごちそうに頼るしかないんです。
あのとき食べたあの味はよかった……と思い出せる先が一つ増えるということは、参照できる目標が自分の中に一つ増えるということです。

アウトプットの質向上には、積極的なインプットが欠かせません。
世界のトップをひた走る名店のシェフだって、シビアに美食に励んだからこそ人を唸らす味を生めるのです。
勉強だと思って、週末は軽はずみに贅沢を。
センスは良質な経験によって磨かれるということを、僕たちは忘れるべきじゃありません。

おわりに

今日も今日とて我が家の夕食は、僕が適当にこしらえた名もない料理たちです。
だけどそれで何の問題もない。不満もないし、健康は守られます。
そのくらいの食事なら、ちょっとした手間で簡単につくれるんです。
堅く考えるのをうまくやめられれば、自炊によって充実した食生活を楽しむことはそんなに難しくないのだとお伝えしたところで、本日は終わりたいと思います。

この記事が誰かの何かに対するやる気に、少しでもつながってくれますように。
それでは、今日はこのへんで!

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