マティス

美を見極める力|暮らすように旅してみるニューヨーク編

西洋の美術のイメージはあふれる自己主張。
キャンパスいっぱいに描きつけ色をぬる。
芸術に明るくないわたしでも、そこに作者の存在を感じずにはいられない作品が多い。

対して、日本の美術は、例えば余白を効果的に使っている。その余白から想像して何かを感じる見る人や生活者がいて初めて完成する感じ。
例えば長谷川等伯の水墨画のように。
右も左も空白だらけで、そこを埋めようとしていない。
(↓長谷川等伯『松林図屏風』)

空っぽの中に本質を見出すというのは、東洋ならではの考え方かもしれない。
老子の「虚にして霊あり」は、無であるからこそ、いろんな可能性があるという教え(だと解釈している)。
だから、東洋的な美術を見るときは、見る側の自分がどんな可能性を感じるかを大切にしている。

逆に、西洋美術を見る時は、作者の主張を感じ取る技術が必要なのではないかと仮説を立てている。

意思を感じる絵は、どんな意思を感じるか。
何も感じない絵は、どうして感じられないのか。

なんてことを考えながら、今日もニューヨーク近代美術館(MOMA)を観て回った。
純粋な表現と、売れ線を意識した絵はきっと違う声を持っているんだろうな…なんて打算的なことを考えているうちは審美眼(美を見極める力)は養えないのだろうな。あぁ修行が足りないわたし。

日本人は芸術に対する審美眼がないなんて言われるのを聞いたことがある。
それでは、ニューヨークの人は、本当に絵を見ているんだろうか。
モネの絵を前にして、みんな気はそぞろ。美術ではなく何を見ているのだろうと人間観察に入るのは、わたしの悪い癖だ。


(↓モネの睡蓮の前の様子。人は多いけど見てる人がいないので、前の方でしっかり鑑賞できる。)

ということで、アートを知りに美術学校へ行ってみた。


今回訪れたのはこちら↓


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