chen_kana

闘病中の父親と過ごす日々について書いていきたいと思います。

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マガジン

  • 父親が「ヤコブ病」と診断された

最近の記事

初めてのお盆

お盆だからという理由で帰省するのは初めてだった。今までTV業界にいたため、なかなか決まった期間に休みが取りづらかったのもあるが、自分の中で「お盆」というイベントがそれほど重要でなかったことが一番の原因だと思う。 令和元年の12月24日、お盆という期間が一気に身近になった。そのため、今年は夏季休暇を取得し、実家に帰って一泊した。コロナウイルスが猛威を奮っているので高齢の祖父母が住む家に戻るのは心配だったが、二人ともワクチンの接種が完了していると聞いて、それならということで実家

    • 葬儀が終わって

      12月29日 父親の葬儀が終わり、日常が帰ってくる 父は、死んだのではなく、生まれ変わった。「終わった」のではなく、「新しく始まった」のだと思う。 私たちの身体は、この世で生きるための入れ物だ。身体が運悪く使い物にならなくなってしまっても、あの世で別の身体をもらって、また元気に暮らし続けることができるのだと思う。 新宿でバイトをしていた時、女の子の魂を持つのに男の子の身体に生まれてしまった人や、その逆の人を沢山見てきた。そういう人を見ると、やっぱり魂と身体は全くの別物で

      • 私の隣で 眠るように

        12月24日 パパが天国へ行く。56歳だった。 午前2時まで父の隣で起きていたが、呼吸が落ち着き安定したため、安心して隣で寝ることにした。 午前3時30分ごろ目覚めた。寝息が聞こえないので心配になり、顔をのぞいた。呼吸をしていなかった。父は、静かに息を引き取っていた。 最期の時、隣にいることができたが、その瞬間を確認することはできなかった。父は、きっと私が眠ったのを確認して、安心して自分も眠ったのだと思う。 悲しかった。今までの人生で、一番悲しい出来事だった。苦しくて

        • 意識レベルの急激な低下

          12月23日 呼吸が正常でなくなり、意識レベルが低下する。 おむつに大量の血がついていたことから、腸が通常の機能を失い、出血が起こっていることがわかった。そして、頻脈や高熱が起き、血圧が測定できないなど、普段起こらなかった事態が沢山起きた。ミオクローヌスもほとんど消失し、目も開かなくなってきた。酸素濃度もかなり低下していた。その時が確実に、一歩一歩近づいていることは、誰の目にも明らかだった。 肺炎を起こしている可能性があるので、抗生剤を点滴で落とすことになった。ここまで意

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        • 父親が「ヤコブ病」と診断された
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        記事

          点滴の限界が近づく

          12月20日 徐々に血管がもろくなり、点滴に耐えられなくなって来ていることが分かる。 ちょうど1カ月前、延命をどの段階まで行うかについて主治医と話し合った。このノートにも書いたように、私たちは無理な延命をしないという決定をした。しかし、経口摂取が困難になった当初は、あまりに意識がはっきりしていたので、そのまま命が終わるのを黙って見ていることはできなかった。 そこで、人間の自然な死に逆らわず、痛みの少ない最低限の延命を、ということで点滴での水分投与を選択した。その際主治医か

          点滴の限界が近づく

          「そろそろ覚悟を」

          12月18日 内臓の機能がかなり落ちていることが分かる。 口の粘膜がだいぶ弱くなり、少しの刺激でも出血するようになった。そして、何も食べていないのに下痢気味の日が続き、今日は血便が出てしまった。胃や腸も、口と同じように少しの刺激で出血し、ただれている証拠だった。 そろそろ覚悟を決める時だと言われた。 容態の急変が十分にあり得る時期に差し掛かってきた、と。 一気に死が身近になった気がした。今まで何だかんだで、理解したつもりで遠ざけていたものだ。点滴も、もう挿す場所が無く

          「そろそろ覚悟を」

          体力の衰え

          12月15日 目を開けている時間が殆ど無くなる ここ3日間、父親ははっきりと目を開けなくなった。以前のように大きく目を見開いてびっくりしたような顔もあまりしなくなった。そのような表情らしい表情は、1日のうちに5分見られるか見られないかだ。こちらが話す内容をわかってリアクションをとることも、一切無くなった。あるといえばある気もするのだが、それはきっと希望を持っているからそう見えるだけだろう。看護師は、この病気は末期に差し掛かっても耳は聞こえるが、環境音としてしか捉えられないと

          体力の衰え

          久々の反応

          12月11日 父親の意識がはっきりする時間が長く続く 夜中ぐっすりと寝ていた父親は、朝の5時半ごろに飛び起き、下半身がベッドから落ちてしまうほどだった。まだこんなに動けるとは思わなかったので、驚くのと同時に嬉しかった。看護師と一緒に体を整えると、それから7時ぐらいまでまたよく寝ていた。 7時ぐらいから唸ったり動いたりし始め、9時頃にははっきりと目を開けていた。私の方を見てニカッと笑ったり、「誰だかわかる?」と聞くと頷いたりした。こんなにはっきりした反応が返ってくるのは、3

          久々の反応

          2日ぶりの再会

          12月9日 2日ぶりに父親と再会する この二日間、叔母が大阪から来ていた。今まで会えなかった分、施設に泊まって父親と時間を過ごしたいとのことだった。私はちょうど友達との約束もあったので、二日間父親から離れることになった。 2日ぶりに父親を見ると、逃避していた現実が一気に戻ってきた感じがした。妹の家族に会って笑顔でいる父親の写真が送られてきていたので、もしかして表情や認識のレベルが回復していたりするんじゃないかと思ってもみたが、そんなことはなかった。分かってはいたが、やはり

          2日ぶりの再会

          家族のエゴで生きてもらうこと

          12月6日 激しい手足の動きが戻ってくる。 父親は最近、以前のように何かの拍子で手足が大きく動くというよりは、突発的に呼吸筋がけいれんを起こすことの方が多くなっていた。しかし今日は、何度か手足も大きく動かし、ベッドから落ちそうになることもあった。こんなに大きい全身の動きは、もう一週間近く見ていなかった。これを見た祖父母はショックを受けたようだが、私は嬉しかった。まだこんなに動けるんなら、もうしばらくは大丈夫かな、と。 点滴も調子が良く、順調に一日1500ccを投与できてい

          家族のエゴで生きてもらうこと

          天候と体調

          12月4日 久々に父親が笑顔を見せる。 朝の9時ごろ、父親が上体を起こそうとしていた。私はベッドに乗り上げて父親の両脇に手を入れ、せーのの合図で父親の上半身を起こした。ちょうど抱きかかえて座るような姿勢になり、父親は私の肩越しに青空を見ていた。 天候によっても、体調はかなり変化する。病状が右肩下がりなのは変わらないが、その中でもムラがあるのだ。特に晴天の日は機嫌が良いことが多い。 この日も朝に2回、夜に1回と、計3回上体を起こすことができた。以前に座る姿勢になったのは、

          天候と体調

          施設の人びと

          12月2日 安定剤を中止する。 父親は、今日もほとんどの時間を眠って過ごしていた。 ミオクローヌスの動きもだんだん小さく、少なくなってきたので、夜間の安定剤は必要なくなった。夜中に起きてしまうことも無くなり、ぐっすりと眠れているようだった。逆に言えば、夜中にあれだけ寝たのに、昼間も夕方もほとんど眠っていた。 父親が出す声もだいぶ小さくなった。以前は部屋の戸を閉めていても、声を出せば遠くから看護師が駆けつけるほどだった。このことも、私を一層悲しい気持ちにさせた。父親は今は

          施設の人びと

          書くことがなくなる寂しさ

          11月30日 点滴を中止する。 父親は、格段に起きている時間が減った。反応もあまりないので、それに伴ってここに書くことがなくなってきた。とても寂しいことだと思う。介護拒否や、本人に病気を宣告するかについて悩んでいた時期が懐かしくなった。懐かしいと言っても、まだほんの2週間前の話なのだが。 父親の腕は点滴の管が通っているにもかかわらず、勝手に激しく動いてしまっていた。抜けてしまったり、漏れてしまったりでトラブルが後を絶たず、ついに血管がもろく、点滴が一時入らなくなった。そこ

          書くことがなくなる寂しさ

          孫に会う日

          11月29日 妹が子供を連れて施設に会いにくる。 朝、布団がめくれて、父親の足が見えていた。私は唖然とした。骨と皮しかなくて、骸骨のようだった。腕も、今まで何度も点滴を挿し直したため、いたるところに内出血ができていた。痛々しい紫の痣が、また私を「このまま点滴を続けていいのか」と考えさせた。 今日は昼から、伯母や従弟、祖母が施設に来ていた。従弟は頻繁に父親の顔を見ているわけではないので、変わり果てた姿を見て、ショックを隠せないようだった。 そのあと妹と姪が到着した。施設に

          孫に会う日

          笑顔

          11月27日 妹が23歳の誕生日を迎える。 妹は、この世で唯一の私の本当の理解者だ。 今まで歩んできた道は全く違うが、家庭に結びつくことにおいての立場は、私と同じだからだ。具体的に言えば、同じ父親と母親を持ち、両親の離婚を経験し、それに付随する色々と不便だったことも共有した。祖父母をはじめとする親戚それぞれの良いところと悪いところを、感じたままにお互い話し、理解しあってきた。お互い大人になっても一緒に風呂に入り、愚痴を言い合えば、その後は楽になった。 出産し子育て中の妹

          「要介護5」に対して家族ができること

          11月26日 父親のためにできることが極端に減ったことに気付く。 10月半ばに受けた要介護認定調査を受けた時点では、要介護2の状態だった父親は、11月に入った時点ではすでに要介護5の状態まで進行していた。認知機能が低下し、食事や排泄などにおいて介助が必要な場合が要介護2、完全に寝たきりの状態が要介護5だ。 要介護認定とは、認知機能・運動機能・日常の生活動作などにおいて、どの程度の介護が必要かをランク付けする制度で、このランクによって受けられるサービスや支給限度額が変わって

          「要介護5」に対して家族ができること