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第二六節 POWER AND THE GLORY今昔物語

 例のクラブスタッフから『ミーティングをしたい』との電話連絡が入ったのは今からちょうど二年前のことだった。セレッソ大阪のサポーターになってからというもの話し合いなど星の数ほど存在している。だけどそれらの話し合いはけっして重要なものばかりでもなかった。
 クラブスタッフの声色からはさほど重要性なものの空気を感じ取れなかった。電話の先から聞こえる声は『いい話だから』を何度も繰り返している。それでも過度な期待をせぬようぼくは冷静に努めた。
 有史以来、クラブとサポーターの話し合いに楽しい気分があったためしなど両手で数えられるほどしかない。しかも場所はセレッソ大阪の事務所にある会議室なわけだ。
 当日。ぼくはあえて意識的に少し遅れ気味で入室した。案の定だけど空気が重い。そこには多くのアミーゴ ― あまり絡みのない若いサポーターもいる ― クラブスタッフ、その隣には、見知らぬ男性が座っていた。
 …誰だよ。だけど、ただならぬオーラを発するこの人。アミーゴがどう感じていたかはわからない。だけど、ぼくは一瞬で理解した。なぜなら、一生忘れられない風体なのだから。畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
 セレッソ大阪のスタジアム演出を一手に担う人物らしい。演出といえば我がクラブにはあのDJがいるじゃないか。さらに素晴らしいものにするためだからというクラブスタッフの話をすべて信じるわけではないにせよ、はじめの一歩だと思って興味津々で話を聞いた。
 クラブスタッフによる紹介で会議室内がどよめく。有名なあの映画やあのドラマの音楽を担当する”先生”じゃないか。ぼくが肌で感じた雰囲気は本物だった。住む世界がまるで違っていると劣等感すら生まれてしまう。セレッソ大阪という下界の一丁目一番地で、どのように接したらいいのかおよそ見当もつかない。
 そういや以前も同じような演出家がやってきたな。そして、そそくさと去っていったことがあったな。そんな昔話をぼくは思い出した(あのときのあの人はどこの誰だったのか。記憶力に相当自信があるぼくですらまったくもって覚えていない)。

 二度目はの会合はセレッソ大阪のオフィスの階下にあるファミリーレストランでおこなわれた(何度も通ったこの店!応援ミーティングで徹夜するなんて数え切れないほどの!)。
 スタジアム演出についての説明からPOWER AND THE GLORYの話題になった。我らのシンボルでもあるこの歌の扱いについて話が進んだ。しばらくして、ぼくを含む多くのアミーゴの顔色が微妙に変化した。
 正直に言ってしまうと、歌いはじめた当初このPOWER AND THE GLORYに強い思い入れがあったかと問われれば答えに窮してしまう。ぼくにとってはそれくらいの位置づけだった。
 試合開始前の静寂のなかでこだまするこの我がクラブの応援歌が、リヴァプールにおけるYou’ll Never Walk Aloneだと言い切れる自信がぼくにはなかった。事実、惰性で歌い続けていた感もあっただろう(まあ、歌い続ければなんとやらで、ぼくの血と肉と汗と涙の原材料となるのにそれほど時間はかからなかったのだけど)。
 ぼくらの代名詞でもあるNEVER STOP NEVER GIVE UPとこのPOWER AND THE GLORYのあいだには「諦めたりしない」という共通点がある。このふたつの思い。諦めたらそこで試合が終了してしまう。だから、ひたすら身体の一部として、掲げ、歌い続けることこそが、サポーターとしてのぼくのライフでもあったのだ。
「クラブは変わっていかなければならない。その一歩だともわたしは思っている」先生は、一歩、に強いアクセントを置いて言った。
「ちょっと待ってください。この歌はセレッソ大阪サポーターの魂、誇りなんですよ。さらっと別のものに置き換えて、はいオッケー、なんてことは絶対に認められないです」
 ぼくは語気を荒げて返した。もちろん納得できるところとそうでないところがあった。しかしながら、これまでのクラブとの話し合いで何度も発生してきた、納得してくれ、納得できない、の応酬が、しがないファミリーレストランで一席で延々と続いた。
 セレッソ大阪のすべてがこの歌に宿っている。それ以上でもそれ以下でもない。POWER AND THE GLORYはいつもぼくらのそばにいる。だから安心して試合に臨めるのだ。これまでの歴史をただただ全否定された気持ちになっていたのかもしれない。ある意味、あえて強がって見せたところも多分にあった。
 そのおかげだろうか。怪我の功名と言ってしまっていいかわからないけれど、結果的にはこの一件のおかげでゴール裏におけるPOWER AND THE GLORYの存在価値がさらに上昇した。その後、試合ごとに世界一の応援歌としての輝きを増していったのは言うまでもない。

 若気の至りという言葉すら恥ずかしいくらいの年齢でもあるのに、まるで怖いもの知らずの若造みたいにがっついてしまったことを昨年の年越し中華では先生に詫びたのだった。
 男は殴り合って友情を深めていく、なんていう昭和のスポ根のような言葉の応酬が、ロッキー・バルボアとアポロ・グリードを彷彿とさせるくらいの関係性を生んでくれた。
 セレッソ大阪がくれた縁はセレッソ大阪でしかつながっていられないことも重々わかっている。細い糸は、ピンと張り詰めたままの状態ではいつか切れてしまうだろう。
 川の流れが絶えることはないけれど、同じ場所に留まることなんてけっしてできない。だってもうそれは元の水ではないのだから。だからこそその一瞬一瞬を大切に生きなければならないとぼくは思った。
 こんないい人がセレッソ大阪に来てくれたことにぼくは深く感謝した。先生との出会いを思い出しているとき自分の左の耳たぶが赤くなっていることに気づいていた。
 自分が自分じゃないくらい、慣れない言葉を頭に浮かべてそれを復唱するたび、さらに左耳が赤くなっていくような感覚がある。恥じらい、頭をかくふりをして、燃えたぎるくらい赤くなっている部位に、ぼくは瓶ビールによって冷えた左手の指でそっと触れた。
「お前、社長やれよ。うんそれがいい。それが一番だ。セレッソ大阪のことを一番好きな奴がトップになるのがいいよ」
 話を聴きながら、先生のがなぜこんな話をぼくにしてくるのだろうかと推し量っていた。セレッソ大阪のことを一番好きな奴、という言葉が脳内でリフレインしているのを感じる。
 その言葉に値する人間かどうか自分にはまったくわからない。ぼくよりセレッソ大阪を好きなサポーターなんて山ほどいると思っている。どうしてぼくはこんなにもセレッソ大阪を好きなのだろう、と無性に考えてみたくなった。
 大阪市に住んでいたからなのか?
 家から一番近いJリーグクラブだったからか?
 ヤンマーディーゼルサッカー部に期待したからか?
 桜色のユニフォームに憧れたからか?
 誇るべき選手がいるからか?
 信頼できる仲間が多いからか?…
 すべてがすべて正解だった。好きの度合いなど測る必要がないのだ。誰もそんな恩賞など必要としていない。ただ好きなだけでよかった。そう「ただ好き」という思いだけでここまで走ってきた。
 プロ化推進室のドアをこじ開け、JFLで優勝し、Jリーグに昇格し、幾重ものサポーター問題を乗り越え、優勝争いができるようになり、降格してはまた返り咲き、サッカーショップを持つことだってできた。
 多くのアミーゴと出会えた。充分すぎるほどのご褒美をセレッソ大阪はぼくにくれた。これ以上なにを求めるというのだ。ぼくには素晴らしい宝物がもうたくさんあるのだ。
 きっと、ふたりとも酔っている。先生は同じ言葉を繰り返し、ぼくはただただ、うんうん、と相槌を打つばかりだった。

「多分、ぼくは向いてませんよ。できれば好きなことを好きなこととしてやっていきたい。ビジネスだと思った瞬間に掌からスルッとなにかがこぼれ落ちる気がするんです。まだ…夢を見ていたいんですよ。夢から醒めるのは、ごめんです」
 両の手の平を対面の人物に向けながら思いの丈をぼくはぶつけた。先生は変わらずぼくの目をじっと見ていた。鋭く尖った目をしている。ちゃんと年齢を聞いていなかったけど多分一五は上だろうか。これが先生の本物の眼差しなのだとぼくは確信した。
 所詮、アルコールの力など、一流の人間の集中力にかかったらまるで役には立たない。これ以上目を合わさずに済むようにと、ぼくは締めの蕎麦をひたすら口へと運び続けた。
 気づいたら店内の音が聞こえるようになっていた。蕎麦をすする音があちらこちらでしている。ズルズルというその音が不思議と自分の魂動に共鳴していくようにも感じた。
 小学生の頃から音楽の成績なんて可もなく不可もなくだった。楽器など触ることすら恐ろしい(若いときにギターなんかもチャレンジしてみたが、まったくもって体質に合わなかった)。
 それでも、太古以来の音楽の偉大さだけはよくわかっているつもりだ。サッカーと音楽はいつも密接に寄り添いあっている。まるで愛を確かめ合う恋人同士のように。
 その愛があるからこそ応援歌は選手の心に届く。愛の力を信じてサポーターは声の限り歌い続ける。次の日のことなど考えもせずに。喉が枯れてしまうことなど恐れもせずに歌い続けるのだ。
 先生の制作したアンセムは、今や愛を体現するためだけに生き、スタジアムに通い続けるセレッソ大阪サポーターにとって、もっとも大事な応援歌のひとつになった。
 人生という時間がちっぽけなぼくを容赦なく老いへ向かわせたとしても、このアンセムがスタジアムから消えてなくなるなんてけっしてないだろう。店内に駆け回るすする音量すらぼくは愛おしく思えた。
 徐々に蕎麦が減っていく。最後のひと口をつゆに入れ、最後の晩餐でちぎったパンのようにぼくは恭しく口に運んだ。
 試合の光景が目に浮かんでくる。笑顔が溢れる満員のスタンド。この試合の重要さを意識したアウェイクラブのサポーターも多く集まっている。
 フラッグシンフォニーの大旗が優雅に振られるピッチ。長居スタジアムのI―四ゲート付近のウルトラのボルテージはすでに最高潮だ。
 さらにはスタジアムDJがその美しいボイスで観客を煽る。ついに我らの選手たちが入場してきた。そのテンポに合わせ、ぼくは蕎麦を咀嚼し続けた。口のなかに、たしかにアンセムが流れた。

 自分の意志を継いでくれない我が子の思いを悟った初代経営者のように、先生は鋭い目から一転、目尻を下げながらゆっくりとぼくに話しかけた。
「分かった。いや、そう言うと思っていたよ」
 なぜかぼくは、先生と自分の父親とを重ねてしまっていた。
「さあ、この話はここまで。聞かなかったことにしといてくれ。こっちも言わなかったことにするから」
 いつもよりも遅いテンポでの話したあとで先生はペロッと舌を出した。屈託のない笑顔。父親から笑いかけられた記憶があまりないぼくは、もし笑ってくれるとしたらこんな感じなのだろうなと素直に思った。
 さっきまでの空気を振り払うかのように先生とぼくは大笑いをした。目に溜まっている涙を悟られないよう、笑い泣きに見せるためにぼくは必死に取りつくろった。
 怒涛の進撃を見せたセレッソ大阪の二〇〇九年が終わる。ぼくの人生の一ページがようやく終了しようとしている。

 店を出た。二〇一〇年もいい年にしよう、と挨拶して別れた。これ以降、先生がこの話題をぼくに振ることは一度としてなかった。

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