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#57 私がSNSをやらない理由

私はSNSをやりません。
その理由は、必要性を感じないからです。
Yes、惰性です。
今までずーっとやってこなかったからです。
真正の、正真正銘、生粋の純粋無垢な「ザ・惰性」。
不便を感じないのでそのまま来てしまいました。
「私がSNSをやらない理由」などというそれっぽいタイトルをつけましたが、実は理由らしい理由などないのですね。つまり、ハッタリです。
それなりに良心がある私としては些か気が引けるのですが、それもたまにはいいでしょう。愚かさも時に良薬になるのではないか、と自己を正当化してみます。粗雑なメンタルトレーニングです。

SNSをやらないと、ガラパゴス化します。
その上、私はテレビも新聞も大してチェックしませんので、ガラパゴスまっしぐら。進化が止まりません。
ガラパゴスと言えばまだかわいいものですが、要するにバイアス強化ですよね、これって。などと思ったりもします。クセ強バイアスの促進。
でも、バイアスだらけの人が私は大好きです。
中立性や客観性というものはつまりません。それは対人用アウトプットのマナーとして必要ではありますが、本心からそれが肝要と考えているとしたら、かなりつまらないです。
でも、中立性を極めたいという思いも中々のバイアスですから、それはそれでユニークな人物が育つ気もしますが。メディアにはそういう人がいてほしいですよね。中立マン。頼りになりそうですね。
何事も極めると道は開けるのですかね。私もいつかその閾値を突破したいものです。

主観を軸に立脚しないと、わけがわからなくなります。中立性や客観性は自己検閲を促進しますから、自分のこころとからだの動きを止めてしまいます。それは自意識過剰を生むので、単純に窮屈とも言えます。とはいえ私も大人なので中立性とか信憑性といったものを日常的に考えますし、noteを書いている最中に脳裡をよぎることもあります。正直な話、毎日が「うるせーコノヤロー、引っ込んでろ、タコ!!」(主観)と「そもそも、それって事実なのですか?」(客観)のせめぎ合いです。当然その時々でバランスが変わるわけですが。
それでも、本noteは「便所の落書」程度のものだと思っているので、気楽に書いてしまっています。極力ブレーキを掛けたくないものですから・・・・ぷりーず、容赦。
よくよく考えたら、オープンな便所の落書というのも何だか質が悪いですね。あれはローカル中のローカルだからこそ許されるところがあります。そう考えると私もこんなこと書いていていいのかしら、と思えてきました。まぁ、書くんですけど。(匿名による無双モードですね、、、、いやはや。)

それから、念のため補足したいのは、私は無礼な連中がかなり苦手です。
「バイアス強め+無礼」は、厭な感じです。なんなら最悪かもしれません。だってただの危険人物じゃないですか、それ。
だから、マナー・常識・ルールとしての中立性はめちゃくちゃ大事です。
例えば、ヘイトスピーチする連中はバイアスだらけで、無礼です。アウトプットが下品なんです。慈悲なき知行合一。
彼らに足りないのは、情報以前にまず常識です。情報は感性のある人しか変えることは出来ません。で、概してそういう人はもう既に知識や知恵をもっているので、情報は不要なんです。情報というものは、必要な人には拒絶されてしまいますし、受容してくれる人は既に持っていて不要ですから、結局変わらないんです。なんとも皮肉なものです。しかしながら、それでも種を蒔くという営みは必要なんです。諦めたらそこで試合終了なんですって。誰かが言ってましたよ。その連続こそが歴史なのです。
無礼な連中は常識とか規律といった基礎がとにかく弱すぎます。土台が脆弱だから、何をどれだけどのように積もうが残念なアウトプットになるのです。
ナンセンス極まりない傍若無人を自由と呼ぶのなら、私は不自由を望みます。そんな自由は退屈ですし、窮屈ですから。不自由な自由って一体なんなのですか、それ。とんちみたいです。G.オーウェルの世界ですか。知性が怪しい私はそういうの苦手なんです。勘弁してくださいよ。
無礼とクリエイティブは全く異なるものです。これ、結構整理できていない人が多い印象があります。似て非なるもの、とかではないんです、そもそも別物なんです。
暴力でウケを狙うような大人は心底、気味が悪いです。
無礼はただの愚かさに他なりません。

さて、SNSの話からバイアスの話へ飛躍してしまいましたね。
私は書いていて面白かったです。すいません、自己満足です。
気付いたことは、
私はバイアスが好きで、嫌いだ。ということです。人間だもの。
私の好きなバイアスとは恐らく洗練された個性を指すのでしょう。
そして嫌いなバイアスとは無礼のことでしょうね。
恥ずかしながら、そこまで考えたことがありませんでした。書きながら気付けて良かったです。私は自分のことすらも良く解っていないようです。
結局私は中庸・調和への憧れが強いのでしょうね。真っすぐ欲望に突き進むこと(解放)と、無礼を遠ざけること(束縛)。これらの中庸・調和こそが自立/自律であり、そこに行くことを私は欲しているのではないかと思うのです。

おそらく私しか得をしないこの回、如何だったでしょうか。
今後も私のnoteでは「ほどよい甘さ、ミルキー利己主義。」という90年代的なアウトプットを追求していきたいと思います。
キーワードはディシプリンです。それではまた。


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