カトリック清流

2015年カトリック教会にて受洗。清らかな流れに身をゆだねます。

カトリック清流

2015年カトリック教会にて受洗。清らかな流れに身をゆだねます。

最近の記事

ビブリア・ヘブライカ

古典ギリシア語の学習は、初級だけでも年単位での時間がかかる、ということが分かってきたわけであるが、しかし人生の時間は有限である。 何れにしても時間がかかるものであるのならば、その間ギリシア語だけ学ぶのも惜しいように思われたため、この度ヘブライ語も同時に学習することにした。 もちろん目的は、旧約聖書を原語で読むためである。 そこでドイツ聖書協会から出ている定評のあるヘブライ語旧約聖書である『ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア』(略称:BHS)を購入した。 分厚い辞書

    • コイネー・ギリシア語の世界

      聖書を原語で読むべく、古典ギリシャ語の学習を始めてから2ヶ月ほど経つ。 学習を始めてから、なかなかに難解であり、骨が折れるものであることが分かってきた。 全くの独学で、かつ語学が趣味のようなタイプではない身としては、アリのごとく進むしかないという実感である。 そして新約聖書ギリシャ語(コイネー)に入る以前に まずは古代ギリシャ文学のための古典ギリシャ語学習をしなければならない、と感じている。 1−2年かけて初級卒業できれば、よいほうであろう。 聖書ギリシャ語にたどり着くのは

      • ネストレ=アーラント版

        最近のニュースを見ていると 世界の政治経済には重い暗雲が立ち込めているように見える。 とりわけ日本では物価は上がり続けるが給料は上がらない、 いわゆるスタグフレーションを実感する日々であり、 為替もどこまで円安が進むか分からない状況である。 社会は出口の見えない閉塞感に覆われ、 メンタルを病む人々が多いのも頷ける。 そしてそれは決して他人事ではない。 聖書的な表現を借りるならば、 今は悪霊が跋扈し、猛威をふるい、 あるいは誘惑し、あるいは脅しを持って 人々の心に取り憑き

        • 恵みの更新

          主のご復活おめでとうございます。 2022年も無事、復活徹夜祭に与ることができました。 教会には新受洗者の方もおられ 洗礼の瞬間に立ち会えたことは大きな喜びでした。 洗礼の恵みが その方の生涯を守り、育み、導かれることを願ってやみません。 また受洗者には、洗礼の約束の更新が行われました。 私自身がカトリックの洗礼を受けたのは 2015年4月4日の復活徹夜祭においてでした。 このブログもその時の洗礼の恵みを記念して始めたものでした。 あれから7年が経ちます。 私

        ビブリア・ヘブライカ

          イザヤ書を読む(9)

          第一部 イスラエル、ユダとエルサレムについての託宣(2-12章) 第2章 [1] アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて啓示されたこと。 国々の平和 [2] 来たるべき時に、 ヤーウェの神殿の山は山々の頂きとして堅く立てられ、 どの峰(みね)よりも高く上げられる。 すべての国は川の流れのようにそこに向かう。 [3] 多くの民が来て言う。 「さあ、ヤーウェの山に、ヤコブの神の家に上(のぼ)ろう。 ヤーウェはご自分の道をわたしたちに示される。 わたしたちはその道を

          イザヤ書を読む(9)

          イザヤ書を読む(8)

          イザヤ書 第1章 29-31節 清められるエルサレム [29] 「まことに、慕っていた樫の木のためにおまえたちは自らを恥じ、 自分で選んだ園のためにおまえたちは恥じ入る。 [30] まことに、おまえたちは葉のしおれた樫の木のようになり、 水のない園のようになる。 [31] 強い者は麻のくずに、その業は火花となり、 共に燃え上がって、これを消すものはいない。」 ーーーーーーーーーーーー <本文注より> ・表題。社会的不正に端を発したエルサレムの不忠実を清める行為は(2

          イザヤ書を読む(8)

          イザヤ書を読む(7)

          イザヤ書 第1章 21-28節 エルサレムに対する神の裁き [21] 忠実だった町が、どうして遊女になりさがってしまったか。 そこには公正が満ち、正義が宿っていたのに、 今は人殺しばかりだ。 [22] あなたの銀はかなくずとなり、 あなたのぶどう酒は水で薄められている。 [23] あなたたちの高官たちは頑な者で、盗人の仲間。 皆、賄賂を愛し、贈り物を強要する。 彼らは孤児の権利を擁護せず、 やもめの訴えは彼らに届かない。 [24] それゆえ、万軍の主ヤーウェ、イスラ

          イザヤ書を読む(7)

          イザヤ書を読む(6)

          イザヤ書 第1章 18-20節 回心せよ [18]「さあ、論じ合おう」とヤーウェは言われる。「たとえ、おまえたちの罪が緋のようであっても、雪のように白くなるだろう。たとえ紅のように赤くても、羊毛のようになるだろう。 [19]もし、おまえたちが喜んで聞き従うなら、地の実りを食べるだろう。 [20]しかし、拒んで反抗するなら、剣の餌食になるだろう。」ヤーウェの口がこう語られた。 ーーーーーーーーーーーー <参考聖句> ※本箇所のフランシスコ会訳に注釈は無かったため、代わ

          イザヤ書を読む(6)

          イザヤ書を読む(5)

          イザヤ書 第1章 10-17節 神に栄光を帰す礼拝 [10] ヤーウェのことばを聞け、ソドムの支配者たちよ。 わたしたちの神の教えに耳を傾けよ、ゴモラの民よ。 [11] 「おまえたちのささげる多くのいけにえは わたしにとって何になるだろう」とヤーウェは言われる。 「わたしは、雄羊の焼き尽くす捧げ物や肥えた家畜の脂肪に飽きた。 また、雄牛、小羊、雄山羊の血を喜ばない。 [12] おまえたちはわたしの顔を見ようとしてやって来るが、 わたしの庭を踏み荒らすようにと だれがお

          イザヤ書を読む(5)

          イザヤ書を読む(4)

          イザヤ書 第1章 4-9節 ユダの破滅 ああ、災いだ。罪を犯す国、咎の重い民、 悪を行う者の子孫、堕落した者の子どもは。 彼らは、ヤーウェを捨て、 イスラエルの聖なる方を侮り、離れ去った。 なぜ、あなたたちはなおも打たれようとするのか、 反抗に反抗を重ねて。 頭はどこも痛み、心は弱り果てている。 足の裏から頭まで、健全なところはなく、 傷、みみずばれ、そして生傷ばかり。 膿も出してもらえず、包帯もされず、油で和らげられもしない。 あなたたちの国は荒れ果て、町々は火で

          イザヤ書を読む(4)

          イザヤ書を読む(3)

          イザヤ書 第1章 2-3節 ユダについての審判 天よ聞け、地を耳を傾けよ、ヤーウェが語られる。 「わたしは子どもを養い育てた。ところが、彼らはわたしに背いた。牛はその飼い主を知り、ろばはその主人の飼い葉桶を知る。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は悟らない。」 <本文注より> ・2-3節は裁判用語で書かれている。それは、ヤーウェとその民の間の契約を民が守らなかったことに関する裁判で、ヤーウェが告発者かつ裁判官である。神の民がしたことをことごとく見てきた天と地が、証

          イザヤ書を読む(3)

          イザヤ書を読む(2)

          第一編 第一イザヤ(1-39章) 表題と導入(1章) 表題 アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世にユダとエルサレムについて受けた啓示。 ----------------------------------------------- イザヤの名前の意味は、「ヤーウェは救い」「ヤーウェは救いを与える」などであるという。 ヤーウェとは勿論、天地創造の唯一神、私達の父なる神のことである。 その名が表すように、イザヤの数々のメッセージも、その核心は

          イザヤ書を読む(2)

          イザヤ書を読む(1)

          当ブログは久しぶりの投稿となる。 現在、世界情勢はロシアによるウクライナ侵攻が始まり、予断を許さない状況になっている。 また同時に東アジア情勢も含めて、火種はまだ世界中に残されている。 世界平和とは何か。本当の世界平和はどこから来るのか。私達には何ができるのか。 旧約時代の偉大な預言者にして、新約聖書でも最も多く言及される預言者イザヤ。 およそ2700年の時を超えて響きわたる彼の声に、今あらためて耳を傾けてみたい。 これから読もうとするイザヤ書は以下を使用する。 『聖

          イザヤ書を読む(1)

          [イヴ・コンガール] わたしは聖霊を信じる(8)

          イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。 前回の宗教改革から時代は飛び、現代へ。 カトリック教会によるカトリック教会自身の大改革であった第二ヴァチカン公会議(1962年〜1965年)の聖霊論に耳を傾けてみる。 (以下、本書第一巻P.237-246「第十章 第二ヴァチカン公会議の聖霊論」より適宜転載) ーーーーーーーーーーーー ・公会議の期間中(1962年10月11日〜1965年12月8日)、東方正教会、プロテスタント、聖公会のオブザーバーたちは、討議中のテキスト

          [イヴ・コンガール] わたしは聖霊を信じる(8)

          [イヴ・コンガール] わたしは聖霊を信じる(7)

          イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。 次は宗教改革時代、特にルターとカルヴァンについて取り上げていきたい。 (以下、本書第一巻P.199-214「第八章 プロテスタンティズムの歴史における聖霊論」より適宜転載) ーーーーーーーーーーーー ・まず、ルターとカルヴァンについて考察することにしよう。三位一体の教理の面では、両者は共に、ニカイア公会議の信条、コンスタンティノポリス公会議(381年)の信条、そしてクイクムクェ(アタナシオス)信条の宣言する古典的な教理を

          [イヴ・コンガール] わたしは聖霊を信じる(7)

          [イヴ・コンガール] わたしは聖霊を信じる(6)

          イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。 今回は第一巻第二部「キリスト教の歴史において」の中世教会の部から、トマス・アクィナスに関する記述を中心に紹介したい。 (以下、本書P.127-138「第三章 御父と御子の相互の愛である聖霊」およびP.175-180「第六章 神学者たちの著作における聖霊」より適宜転載) ーーーーーーーーーーーー ・聖霊のこの理解の歴史は、・・・さまざまな偉大な思想家によって彩られている。・・・聖アンセルムス、サン・ヴィクトルのアカルドゥス

          [イヴ・コンガール] わたしは聖霊を信じる(6)