[イヴ・コンガール] わたしは聖霊を信じる(8)

イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。
前回の宗教改革から時代は飛び、現代へ。
カトリック教会によるカトリック教会自身の大改革であった第二ヴァチカン公会議(1962年〜1965年)の聖霊論に耳を傾けてみる。

(以下、本書第一巻P.237-246「第十章 第二ヴァチカン公会議の聖霊論」より適宜転載)
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・公会議の期間中(1962年10月11日〜1965年12月8日)、東方正教会、プロテスタント、聖公会のオブザーバーたちは、討議中のテキストに聖霊論が欠如しているとしばしば批判した。彼らの何人かは、会議の後も、同じ批判を繰り返している。

・第二ヴァチカン公会議において存在した真の聖霊論の諸要素を明らかにし、そしてそれ以後、カトリック教会において力動的な聖霊論が見られることを明らかにしたいと思う。

・1、公会議はキリスト論的な言及に満ちている。それらの言及は聖書的なものである。このことは健全な聖霊論の本質的な条件である。聖霊論は聖霊中心主義ではない。御霊はキリストの御霊である。

・2、しかしながら、公会議は、第一ヴァチカン公会議・・・が提起した、かつての教会の定義である「神秘体」という考えを提示しておらず、十九世紀と二十世紀前半に主流であった「受肉の継承」という図式に従ってもいないのである。

・3,公会議は、H・ミューレンが呼ぶところの前三一神的唯一神主義を乗り越えている。第一ヴァチカン公会議は、明白に三一神的ではない、神概念をもって宣言されているが、第二ヴァチカン公会議の公文書の多くの箇所には、創造と恩恵の「救いの営み」にみられる三位の御業の観点からの教えが開示されている。・・・しかしながら、最も重要なものは言うまでもなく、刷新されたエウカリスティアの祈りにエピクレーシス(聖霊の到来を願う祈り)を導入したことである。・・・御霊は、主の御体と御血の秘跡を執行する行動的な行為者、環境条件、場としての位置が与えられたのである。

・4,公会議の聖霊論的教会論において聖霊が取り戻した重要なことの一つはカリスマにおける聖霊の役割の指摘である。これは次のことを意味する。教会は単に制度的な諸手段によって構築されるだけではなく、「教会においても世界においても、人々の善と教会の建設のために」各人が「それを使う権利と義務を持っており、『思いのままに吹く』(ヨハ3:8)聖霊の自由な導きのもとに、キリストにおける兄弟たち、特に自分の司牧者と交わりながら行使されるべきものである」(『信徒使徒職教令』3)極めて多様な賜物によっても構築されるのである。・・・諸処のカリスマを基礎として、その上に、ピラミッド状の聖職者を中心とした教会論を提示する神学とは全く異なる、新しい容貌を教会に与える神学もしくは役務の行使が展開された。・・・つまるところ、御霊が教会を作り上げるのである。

・5,諸カリスマの価値の回復とともに、またそれに付随するものとして、公会議は地方もしくは部分教会の価値の回復を成し遂げた。K・ラーナーは、彼の目から見て、第二ヴァチカン公会議のもたらした新局面を考察して、一・聖・公(カトリック)・使徒的教会を実現するものとする地方教会の考えに第一の場を与えている。事実、これは『教会憲章』26と『司教司牧教令』11で提示された素晴らしい宣言である。・・・いずれの箇所でも、神の民は「聖霊のうちに」招かれ、集められたものであるとの宣言が加えられている。・・・全体教会は諸教会の交わりとして現れるとすれば、聖霊がこのような交わりの根源となるであろう。

・6,キリストの内に収斂されるはずの充溢は、世界の歴史の内に実質的に準備されるとすれば、御霊はすでに世界の歴史の内に働いておられると言えよう。公会議はしばしば、主の御霊に言及し、「全世界に満ちている方」(『司祭教令』22、『現代世界憲章』11)、「時の動きを導き、地の面を新たにし、この発展とともにある」方(『現代世界憲章』26)、神に向かうよう人間の心に働きかける方(同41)と呼んでいる。また、御霊がキリスト者という新しい被造物を作り上げるのである(同22、37)。

・・・・したがって第二ヴァチカン公会議の文書における真の聖霊論について語ることができよう。しかし、それらは文章にすぎない。それを真実なものとして確証せねばならないのは生き方である。・・・聖霊論は・・・教会の中で実現され、体験されることによらずには、完全に展開されえないのである。

・パウルス6世もまた、ヨアンネス23世によって開始された公会議が終幕を迎えた後に、新しいペンテコステに対する願いを繰り返し述べている。公会議が終わってしばらく後、教皇は次のように述べている。「公会議が提示したキリスト論と、特に聖霊論は、公会議の教えを補充する不可欠のものとして、聖霊による新しい研究ならびに新しい礼拝によって継承されなければならない」。この言葉をもって、この第一巻を結ぶことにするが、この言葉は、神の御心であれば、これに続くことになる二巻の内で追求しようとしている努力を正当化してくれるものである。

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(以上、転載おわり)


第二ヴァチカン公会議が開催されていた1960年代。

この時代は世界史的に見れば、米ソ冷戦の只中であり、キューバ危機やケネディ暗殺、東西ベルリンの壁建設、あるいは中国の文化大革命や、アフリカ諸国の独立など、まさに激動の時代であった。

カトリック教会も、そのような激動する世界の中で、自らの本質を見極め、何を守り、何を変えてゆくかを迫られたことの応答として、この公会議が開かれたのであるが、一方で本書のコンガール師の言によれば「第二ヴァチカン公会議によって再開された公会議主義の問題は、まだ決着をみていない。緊迫した諸問題が山積みされている」とのこと。

つまり、少なくともその延長として、今の私達の教会の姿があるわけである。

とはいえ、冷戦も過ぎ去り、21世紀以降に洗礼を受けた者にとっては、自ら出会った今の教会の姿がすべてであり、当たり前であり、それゆえに先人達の「識別」の苦闘に思いを馳せることは、なかなか難しいことも事実である。

また実際、日本の一般信徒の信仰生活においては、頭で理解する教理・教義・神学というのものは縁遠い。

しかし、信仰生活における識別の目が全く養われていないかといえば、そのようなことは決して言えないと思う。

身近な司教、司祭、シスターなど聖職者の日々の振る舞いや言動、
あるいは所属教会のベテラン信徒達、同信の家族・親族の日々の振る舞いや言動。

それらから、いわば暗黙知として伝達されるものを通して
(信仰の遺産として)守るべきもの、
(現代の環境に合わせて必要であれば)変えてゆくもの、
の識別の目を養っているように思われるのである。

もちろん本人の祈り、そしてエウカリスティア(感謝の祭儀)が、識別の目を育む上で重要であることは言うまでもない。

そのようなわけで、現代日本の教会であっても、個人個人というよりも、その教会全体を見れば、識別の目を備えており信仰は常に健全である、という見方は大切なように思われる。

第二ヴァチカン公会議公文書のひとつ「教会憲章」では次のように宣言されている。

「聖なる方から塗油を受けた信者の総体は(1ヨハ2:20、27参照)、信仰において誤ることができない。この特性は、神の民全体の超自然的な信仰の感覚を通して現れる」(『教会憲章』12)

信者の総体は信仰において誤ることができない、とのことである。

ミサ中の「平和のあいさつ」において、

「主イエス・キリストあなたは使徒に仰せになりました。
『わたしは平和を、あなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。』
わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、おことばのとおり教会に平和と一致をお与えください。」

という言葉があるが、やはり大切なのはこの「教会の信仰」という視点なのではないかと思う。

そしてこの「教会の信仰」、平和の交わりの根源となるものこそ聖霊なのであり、
現代に生きる私達が「わたしは聖霊を信じる」と信仰告白するときには、このような聖霊を信じていることを、常に忘れないようにしていきたい。

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