イザヤ書を読む(6)

イザヤ書 第1章 18-20節

回心せよ

[18]「さあ、論じ合おう」とヤーウェは言われる。「たとえ、おまえたちの罪が緋のようであっても、雪のように白くなるだろう。たとえ紅のように赤くても、羊毛のようになるだろう。

[19]もし、おまえたちが喜んで聞き従うなら、地の実りを食べるだろう。

[20]しかし、拒んで反抗するなら、剣の餌食になるだろう。」ヤーウェの口がこう語られた。
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<参考聖句>
※本箇所のフランシスコ会訳に注釈は無かったため、代わりに他の訳による引照箇所をあげる。ただし訳文はフランシスコ会訳を使用した。

・イザヤ43:25(イスラエルの背信とその結果)「わたし、このわたしがその者、おまえの逆らいを、わたし自身のためにぬぐう者。わたしは、おまえの数々の罪を思い出さない。」

・イザヤ44:22(イスラエルに罪の赦しを保証するヤーウェ)「わたしはおまえの背きを雲のように、おまえの罪を朝霧のようにぬぐった。わたしに立ち帰れ。わたしはおまえを贖ったのだから。」

・詩編51:7-9(あわれみの嘆願)「見よ、わたしは生まれたときから悪に染まり、母の胎内にやどったときから罪に汚れていました。見よ、あなたは心の底のまことを望み、わたしの心の奥に知恵を授けられます。わたしから罪を取り去ってください、わき水よりも清くなるでしょう。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるでしょう。」

・レビ記26:3-5(遵法に対する祝福)「もしおまえたちがわたしのおきてにしたがって歩み、わたしの命令を守って、これを行うならば、わたしはおまえたちに適当な時期に雨を与え、地はその産物を出し、畑の木はその実を結ぶであろう。おまえたちの麦打ちはぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは種まきの時まで続くであろう。おまえたちは飽きるほどパンを食べ、おまえたちの地に安心して住むであろう。」

・レビ記26:23-25(違法に対するのろい)「もしおまえたちがそれでもなお、わたしのいましめを受け入れず、さらにわたしにさからって歩むならば、わたしもまたおまえたちにさからって歩み、おまえたちの罪のゆえに七回おまえたちを打つであろう。わたしはおまえたちの上につるぎを臨ませ、契約の復しゅうをするであろう。おまえたちが町々に引きこもる時、わたしはおまえたちのうちに悪疫を送り、おまえたちは敵の手に渡されるであろう。」
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「さあ、論じ合おう」と、ヤーウェはイスラエルに語りかける。公平な裁判の場で、両陣営が各々の正当性を主張し合おう、というのである。
しかし、「おまえたちの手は血にまみれている」(1章15節)といわれる程、緋のように、紅のように赤い罪を負っているイスラエルである。
ヤーウェ礼拝を形だけ守り、律法を守っていると主張したところで、心のどこかでその後ろめたさが消えることはなく、緋色の染料のように深く染み付いた魂の汚れは、何をしても拭うことができない。
ヤーウェの前に自らを義としようとすることで、却って自らの罪の深さが炙り出されてしまう。
ここでは異教の神々も弁護してはくれず、
神の追及により、一枚一枚、正当性の皮が剥がされ、ただ罪人である己の姿が暴かれてゆく。
しかし、ヤーウェは裁きの神であるだけではなく、慈しみの神でもある。ヤーウェの最後通牒は、回心と赦しの可能性を残した、恵みと憐れみの言葉であった。
「たとえ、おまえたちの罪が緋のようであっても、雪のように白くなるだろう。」
魂に染み付いた血の汚れを拭い、雪のように白く、そして清くするのは、人の業(わざ)ではなくヤーウェの業である。
ヤーウェに依り頼むことなしに、人は自らを清くすることはできない。
そしてイスラエルをエジプトの奴隷生活から自由へと導き出したヤーウェは、いつでもイスラエルに選択の自由を与える。
二つの道、祝福と呪いの道を示して、自由に選ばせる。

「もし、おまえたちが喜んで聞き従うなら」、祝福を、大地の実りを。
「しかし、拒んで反抗するなら」、呪いを、裁きの苦痛を。
ヤーウェはこの祝福と呪いの応答を通して、イスラエルに「神に立ち帰れ、回心せよ」と忍耐強く、呼びかけ続けている。

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