イザヤ書を読む(5)


イザヤ書 第1章 10-17節

神に栄光を帰す礼拝

[10]
ヤーウェのことばを聞け、ソドムの支配者たちよ。
わたしたちの神の教えに耳を傾けよ、ゴモラの民よ。

[11]
「おまえたちのささげる多くのいけにえは
わたしにとって何になるだろう」とヤーウェは言われる。
「わたしは、雄羊の焼き尽くす捧げ物や肥えた家畜の脂肪に飽きた。
また、雄牛、小羊、雄山羊の血を喜ばない。

[12]
おまえたちはわたしの顔を見ようとしてやって来るが、
わたしの庭を踏み荒らすようにと
だれがおまえたちに求めたのか。

[13]
空しい捧げ物をやめよ。
それをくゆらした煙を、わたしは忌み嫌う。
新月と安息日、聖なる集会を招集することと、
不正な集いとにわたしは耐えられない。

[14]
わたしの魂は、おまえたちの新月祭や定められた祝祭を憎む。
それはわたしの重荷となり、
それに耐えるのにわたしは疲れ果てた。

[15]
おまえが手を広げて祈っても、
わたしは目をおまえたちからそらす。
どんなに祈っても、わたしは聞かない。
おまえたちの手は血にまみれている。

[16]
洗って身を清めよ。
わたしの目の前から悪い行いを取り除け。
悪を行うことをやめ、

[17]
善を行うことを学び、
正しい裁きを求め、搾取する者の横暴を許さず、
孤児の権利を擁護し、やもめの訴えを取り上げよ。」

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<本文注より>
[11節]
本節で言及されている様々な動物のいけにえは、レビ1-5章で詳しく描かれている。それらはそれ自体神に喜ばれないのではない(レビ1:9,13,17などの、捧げ物が燃やされて変えられた煙に対するヤーウェの受け入れを表現する、「意に適う香り」という表現を参照)。しかし回心せずに、とりわけ不正という悪い行いをやめず、孤児ややもめのような困窮している人々への配慮なしに、神の好意を得る手段としていけにえがささげられることは、これらの捧げ物を無意味なものとし、ヤーウェにとって不快なものとさえなる。

[13節]
新月祭、安息日及び定められた祝日を守ることは、すでに述べられた、いけにえを捧げることとともに、レビ23章と民28-29章に記されている。

<参考聖句>
レビ記1:1-2(全焼納祭)
「ヤーウェはモーセを呼んで、会見の幕屋からかれに次のように仰せられた。「イスラエルの子らに告げてかれらに言え、『おまえたちのうちだれかがヤーウェにささげ物を奉献するときは、家畜のうちから牛か羊の類を、おまえたちのささげ物として奉献しなければならない。」

レビ記1:8-9(全焼納祭)
「アロンの子、司祭らはその切り分けたものと、頭および脂肪とを、祭壇上の火のまきの上にととのえる。ただしその者はあらかじめ、内臓と足とを水で洗う。全焼納祭として、司祭はこれらすべてを、祭壇の上でくゆらす。これは意にかなうかおりとして、ヤーウェにささげる火納物である。」

出エジプト29:42-43(毎日の全焼納祭)
「これはおまえたちが代々毎日たやすことなくささげるべき全焼納祭である。ヤーウェのみまえである会見の幕屋の入口で、わたしはおまえたちに会い、おまえに語り、そこでイスラエルの子らに会見を許す。そしてその所はわたしの栄光によって聖別される。」

<本文注より>
・レビ記ではほとんど全体にわたって、ヤーウェが会見の幕屋の入口でモーセに語ったように記述されている。

・「ささげ物」というこの語は、流血のささげ物と、無血のささげ物とのどちらにも適用される最も一般的な用語である。本章は旧約時代のすべての奉献のうちで最上位の全焼納祭のことを論じている。この祭においては、ささげ物は完全に焼却され、少しも食用のために残されなかった。最も完全で貴重な動物だけが用いられた。すなわち家畜の中でも、らくだ、ろば、ぶたなどを除いた清いもの、しかも雄で、きずのないものに限られていた。これらすべてのいけにえは、きたるべき全きいけにえ、すなわち十字架上のキリストのいけにえの「影」である。

レビ記23:1-8(祝祭日)
「ヤーウェはモーセに次のように仰せられた、「イスラエルの子らに告げよ、『おまえたちが聖集会を召集すべきヤーウェの定めの祝祭、すなわちわたしの定めの祝祭は次のとおりである。
(1)安息日 六日の間は仕事をすることができる。しかし七日目は全き休みの安息日、すなわち聖集会の日である。おまえたちはいかなる仕事もしてはならない。これはおまえたちのすべての居住地において、ヤーウェにささげるべき安息日である。
(2)過越の祭と種なしパンの祭 おまえたちが聖集会を召集すべき定めの祝祭、すなわちヤーウェの定めの祝祭は次のとおりである。はじめの月の14日の夕はヤーウェの過越の祭である。またその月の15日はヤーウェの種なしパンの祭である。おまえたちは七日の間は種なしパンを食べ、そのはじめの日に聖集会を開かなければならない。おまえたちはいかなる労働の仕事もしてはならない。おまえたちは七日の間、ヤーウェに火納物をささげなければならない。七日目にはまた聖集会を開き、いかなる労働の仕事もしてはならない』」」

<本文注より>
アビブまたはニサンと呼ばれる「はじめの月」は太陽暦の三月〜四月に相当し、過越の祭は復活祭に相当する。

民数記28:1-2(日毎および祝祭日の捧げ物、誓願)
「ヤーウェはモーセに次のように仰せになった。「イスラエルの人々に命じて言え。『お前たちは、わたしに捧げるわたしへの食物を、意にかなう香りの火による捧げ物として、その定められた時に、心を配ってわたしに捧げよ』。」

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表面上は契約に忠実にヤーウェ礼拝をするユダの民。しかしその裏の実態は、異教礼拝、偶像崇拝により熱心に励むユダの民であった。

自らのこの世の欲望を満たしてくれる神々へと心は傾き、その同じ心を持って、ヤーウェにもより頼もうとする。

もしヤーウェが彼らの望むように応えてくれるならば、ヤーウェも異教の神々と何ら異なることはない。

ヤーウェはイスラエルに律法(トーラー)と戒律(ミツヴァー)を授けたが、これはヤーウェが主であり、ヤーウェの他に神はなく、ヤーウェが救いであることを教えるためである。

このヤーウェの心が分からないならば、たとえ形だけ外面だけ忠実なふりをしても、何の意味もなく、かえってヤーウェでないものをヤーウェと偽ることで周囲を混乱させる、いわば偽(フェイク)礼拝とすらなる。

現代において、偶像崇拝と呼べるもののうち、その最たるものは、やはり金銭崇拝であろうか。
世界的な金融資本主義、市場原理主義とその支配者たちは新手の神々であろうか。

よかれ悪しかれ、その社会環境の中で生きざるを得ない私達には、できることは少ないが、せめて心だけは、魂だけは、現代の偶像に屈服せず、売り渡すことなく、ヤーウェ、すなわち私達の父なる神の方に向けて、開いておきたいものである。

それはイスラエルの荒野の40年のように、忍耐を要する厳しい期間であるかもしれないが、
父なる神に心を開き続けていれば、御心ならば、いつの日か、必要な場所で、各々の持ち場において、偶像と闘う力もまた与えられるかもしれない、と思うのである。

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