[イヴ・コンガール] わたしは聖霊を信じる(7)

イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。
次は宗教改革時代、特にルターとカルヴァンについて取り上げていきたい。

(以下、本書第一巻P.199-214「第八章 プロテスタンティズムの歴史における聖霊論」より適宜転載)
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・まず、ルターとカルヴァンについて考察することにしよう。三位一体の教理の面では、両者は共に、ニカイア公会議の信条、コンスタンティノポリス公会議(381年)の信条、そしてクイクムクェ(アタナシオス)信条の宣言する古典的な教理を保持している。

・両者はそれぞれに、二つの戦線に対して戦わねばならなかった。すなわち、一方では、正邪はともあれ、「教会」というよりは「位階制」の絶対化と同一視する「カトリック」の立場に対して戦わねばならず、他方で、改革運動の継続を主張して、御霊を引き合いに出す「熱狂化たち」に対して戦わねばならなかった。ルターにとっては、シュトルヒ、Th・ミュンツァーといった「シュベルマー」(熱狂家たち)であり、カール・シュタットであった。カルヴァンにとってはアナバプテスト派がそれであった。

・宗教改革者たちの中でもひときわ偉大な両者は共に、中庸、というよりは統合の道を取り、それぞれのやり方で、恩恵の外的な「手段」、聖書と、御霊の働きの間の一致を主張している。

・彼(ルター)は、1537年の『シュマルカルド条項』の中で、彼らを次のように特徴づけている。
「外的な、語られたみことばに関わるこれらの事がらにおいて、われわれは、先行する外的なみことばをとおして、あるいはそれと共にでなければ、神はなんぴとにもそのみ霊や恵みを与えることをなさらないという確信に、かたく立っていなければならない。・・・彼ら(熱狂主義者たち)は、自分たちがみことばによらず、またみことばに先立って、み霊をもっていると誇っており、それにしたがって自分たちの望みのままに聖書や語られたみことばを判定し、解釈しねじまげている。・・・教皇は『すべての法は自分の心の宮にある』と誇っており、また教会と共に彼が判定し、命じることは、それが聖書や語られたみことばを超え、またそれに反しているときでさえ、これは霊であり正当なことであると主張する。・・・それゆえ、われわれは絶えず、神がその外的なみことばとサクラメント(秘跡)をとおしてでなければ、われわれ人間と関わりをもたれないということを主張すべきであるし、またそうしなければならない。しかし、そうしたみことばとサクラメントによらないで、み霊に帰せられるあらゆることは、悪魔に由来する」。

・ルターは聖霊に帰すべき役割について明確に定義している。御言を聞くこと、この御言ーー聖書に即して宣べ伝えられた御言ーーに固執することを通して、聖霊は完全に福音に関係しており、わたしの救い主イエス・キリストへの信仰に関係している。つまり、御言を聞き、それに固執することによって、信仰に基づいて御霊が聖化する共同体である教会に、人は導き入れられるからである。

・カルヴァンは、ルターと同様に、二つの戦線で戦っている。一方では、アナバプテスト派・・・に対して、幼児洗礼、教会の聖性、旧約と新約聖書のつながり、聖書の重要性を擁護する。他方では、彼がローマの立場と考えているもの・・・すなわち、教会が聖書にその権威を与えるとする立場に戦いを挑まねばならなかった。彼が苦慮したのは・・・聖書の権威をただ神にのみ帰することであり、その帰結として、聖書の認識(承認)をわれわれの内における神の働きに帰することであった。

・この点について、1539年の『規定』の内に次のように記されている。
「われわれは聖書の権威を、人間の理性、人間的な手がかり、憶測よりもはるかに高いものとみなさねばならない。われわれは聖霊の内的な証しの上に、その権威を基礎づけているからである。というのは、聖書は、それ自体の内に、聖書が貴ばれるためのものを十分に持っていることをわたしは知っているからである。しかし聖霊によってわれわれの心に刻印されたときから、それはわれわれに真に触れ始めるのである。したがって、このようにして、われわれは聖書の力によって照らされているのであるから、もはや、聖書が神からのものであることは、われわれの判断によるとか、他の者たちの判断によるとか考えないのである。人間の判断を超えて、聖書は人々の奉仕を通して神ご自身の口からわれわれに与えられたものであることに全く疑いを抱くことはないのである。まさに、われわれは聖書の内に神の本質を観想する目をもっているようなものである」。

・われわれにとってカルヴァンの立場が興味深いのは・・・その教会論の根底となっている一般原則である。それによれば、「神は二重の形でわれわれの内で働いておられる。内側からご自分の御霊によって、外側からご自分の言葉によって」、そしてまた諸秘跡によって。・・カルヴァンが好んで用いる言葉は、「相互の絆によって結ばれる」、「〜と結合された」、「〜の道具(手段)」といった表現である。これらは聖霊論と教会論の分野では、それが健全なものであることを示すキー・ワードである。

・それらの言葉は、たとえエウカリスティア(聖体)における主イエスの現存の事実を完全に保証するものではないとしてもそうである。というのは、カルヴァンにとって、エウカリスティアにおけるキリストの現存は、それを拝受した人の内における聖霊の働きによることであり、パンは、神によって選ばれたしるしならびに保証として、この地上のパンにとどまりつつも、キリストに結合されているものだからである。

・後の所で、聖霊論の健全性は、御言への、諸秘跡への、教会制度への、御霊の位置と役割が十分に認められ、貴ばれるあらゆる状況への、キリスト論的な言及にあることをみることになろう。

・宗教改革運動全体を通しての聖霊論に関するものとして以上で述べてきた幾つかの情報がはなはだ部分的なものであり図式的なものであることを認めるにやぶさかではない。その運動の中で発展された御霊の神学を説明するのを意図したのでもなくーーカール・バルトやエミール・ブルンナーにも言及しなかったーー、プロテスタントの共同体あるいは個々人における御霊の働きについて語ろうとしたのでもない。とはいえ、ここでエミーユ・G・レオナードがプロテスタントの信徒の特徴とみなしている次の指摘を紹介するのを省くわけにはいくまい。つまり、それは、神の介入を個々人が期待していることであり、教会の覚醒を期待していることである。

・実に、プロテスタントの共同体の生は、聖霊の働きによって生じた諸々の「覚醒」によって区切りをつけられている。イギリスにおける(1729年以降)、そしてアメリカにおける(1735年以降)、ジョン・ウェスリーの運動、メソディスト派の運動がそれである。フランスにおける1830年の覚醒運動、アメリカにおける1858年の覚醒運動、1905年のウェールズ地方の覚醒運動、ドローム地方のブリガート宣教団の活動(1922年以降)等々がある。・・・しかしながら、「信仰覚醒運動」という現象の総合的な研究をここで繰り広げることは不可能である。

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(以上、転載おわり)

カトリックとプロテスタント。

日本のキリスト教においても、街で見かける教会は大抵どちらかの教派のものである。

日本の大多数である無宗教(宗教無関心層)の人々にとっては、その違いは分からないことであろう。

その中にあって、同じ父である神を信じ、同じ主イエス・キリストを信じ、同じ聖霊を信じる霊的兄弟姉妹である。

たとえ互いに分離感が残っていたとしても、それは地上のこと。そして地上のものはいずれ過ぎ去る。

意識を上に向けて、お互いに連帯感を培い、お互いに祈りあえるならば、困難の多い地上の歩みも、少しばかり心強いものになるのではないかと思う。

教会一致促進運動(エキュメニズム)の旗手でもあったイヴ・コンガール師の本書からは
同じ一つの聖霊が、歴史の中で多様性を伴って(当然、各教派の中でも)力強く働かれる姿が伝わってくるのであるが、そのパースペクティブ(展望)の広さこそ本書の聖霊論の特徴とも言えよう。

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