イザヤ書を読む(3)

イザヤ書 第1章 2-3節

ユダについての審判

天よ聞け、地を耳を傾けよ、ヤーウェが語られる。

「わたしは子どもを養い育てた。ところが、彼らはわたしに背いた。牛はその飼い主を知り、ろばはその主人の飼い葉桶を知る。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は悟らない。」

<本文注より>
・2-3節は裁判用語で書かれている。それは、ヤーウェとその民の間の契約を民が守らなかったことに関する裁判で、ヤーウェが告発者かつ裁判官である。神の民がしたことをことごとく見てきた天と地が、証人として呼ばれる。元来は王のみが即位とともに神の子となるとされていたが、出4:22、ホセア11:1などでは民全体が神の子として出る。

・六世紀ごろ無名の著者がラテン語で書いた正典外のいわゆる「マタイ福音書」(14章)は、牛とろばが飼い葉桶の幼子を崇めたと記し、さらにこのことによって、本節のイザヤのことばが成就したと述べている。クリスマスの馬小屋の飾りは、13世紀にアッシジのフランシスコがルカ2のベツレヘムの誕生の場面を実物で再現したのが始まりと言われるが、そこにも牛とろばが加えられていた。

<参考聖句>
出エジプト4:22(モーセ、エジプトに帰る)「そこでおまえ(モーセ)はファラオに言え、『ヤーウェはこう言う、<イスラエルはわたしの子、わたしのういごである。>』と。」

ホセア11:1(イスラエルが幼な子のころ)「イスラエルが幼な子のころ、わたしはかれを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。」

<本文注より>
・聖マタイはエジプトからの少年キリストの帰還について本節後句を引用する。
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神と神の子の関係。

神ヤーウェはイスラエルの民にとって父であり、イスラエルの民は神にとって子であるという。

しかし人類の始祖アダムが神に背き、自ら楽園喪失していったように、イスラエルの民もまた、神に背き、神を見失い、盲目のまま、あろうことか更に神から離れようとしている。
聖書の世界では、神に従うことが義(正義)であり、神に背くことが悪である。義を行う者は義人であり、神によって真の幸福を与えられる。一方、悪を行う者は悪人であり、神によって裁かれ、苦しみを受け、最後には滅ぼされる。
イスラエルの民は神の子であるという。

イスラエルの民は、神の奴隷ではなく、神の自由な子として、神に従い、神に近づき、神に似たものとなるほど、神からの恵み、その祝福は増すことになる。同時に、神の自由な子として、神に背き、神から離れ、神ではないものに似るほど、その裁き、その呪いも増すことになる。
神ではないものに似る、それは別の言葉で言えば、神ではないものを神とすることであり、すなわち偶像崇拝ということである。
預言者イザヤが見たものは、残念ながら、偶像崇拝にまみれた神の子イスラエルの姿であった。
そしてその先にあるものは、必然的な神の裁きと呪いとユダの滅びであった。
さて、翻って現代。イエス・キリスト復活後のグローバル化し一つにつながった現代世界。

神ヤーウェを、キリストが伝えた愛(アガペー)である神として、神の子イスラエルを、人類全体に当てはめて、人類全体を神の子として考えてみるとき、私達は今どこへ向かおうとしているのだろうか。またその先には何があるのだろうか。
私達は預言者の声に耳を傾けることはできるだろうか。

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