イザヤ書を読む(8)


イザヤ書 第1章 29-31節

清められるエルサレム

[29]
「まことに、慕っていた樫の木のためにおまえたちは自らを恥じ、
自分で選んだ園のためにおまえたちは恥じ入る。

[30]
まことに、おまえたちは葉のしおれた樫の木のようになり、
水のない園のようになる。

[31]
強い者は麻のくずに、その業は火花となり、
共に燃え上がって、これを消すものはいない。」

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<本文注より>
・表題。社会的不正に端を発したエルサレムの不忠実を清める行為は(24-28節)、エルサレムの礼拝の清めへとつながる。その住民は、園の大木の下で行われた自然礼拝に加わったことを恥じ、狼狽する。大木は聖なるもの、めざましい発展の象徴と考えられていた。

・29節。本節一行目のヘブライ語の文字どおりの訳は、「彼らは、おまえたちが慕った樫の木を恥じる」。主語が二人称から三人称へと、またその逆に入れ替わることはヘブライ語では珍しくない。本訳では翻訳上二人称に統一し、二行目と次の30節の人称に合わせた。アラム語(タルグム)も同じように二人称で統一する。

・31節。火によって罰を受ける「強い者」を「麻のくず」にたとえる背景には、文脈から、礼拝との関連があるように思われる。「強い」とは「樫の木」の強さであろう。

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<参考聖句>
・アモス2:9 イスラエルに対して
「しかし、彼らのためにアムル人を滅ぼしたのは、このわたしだ。彼らは糸杉のように高く、樫の木のように強かったが、わたしはその上の実と下の実を滅ぼした。」

<注より>
・「アムル人」は一種族ではなく、イスラエルが占領する以前のカナンの住民、あるいは古代の全パレスチナ人の意味がある。

・民数記13:31-33 偵察隊からの報告
「しかし、彼と共に上って行った者たちは言った。「わたしたちはあの民のところに攻め上ることはできない。あの民はわたしたちよりもずっと強いのだから」。彼らは偵察した地についてイスラエルの人々に悪く言いふらして次のように言った。「わたしたちが通って偵察した地は、住民を食い尽くす地だ。そこで見た民は皆、背が高い。わたしたちはそこで、ネフィリム人を見た---アナク人はネフィリム人の子孫である---わたしたちには、自分たちがいなごのように見え、また彼らにもそう見えたにちがいない」。」

<注より>
・住民を食い尽くす地。この表現は土地が肥沃でないので住人を養えないという意味である。
・「ネフィリム人」は、ここでは単に「巨人」と訳すことが可能かもしれない。彼らは「神の息子たち」や「人間の娘たち」の子孫として創世記6:4に初めて出る。

・創世記6:1-4 人類の堕落
「人間がこの世にふえはじめてかれらに娘たちが生まれた時、神の子らは人の娘たちを見て好ましいと思い、望むままに彼女らを妻にめとった。そこでヤーウェは、「わたしの霊はその中にいつまでもとどまらない。人はまったく肉であるから。人の日数は百二十年にすぎない」と言われた。神の子らが人の娘たちの所にはいり、娘たちが子を産んだころ、またそのあとでも、地上にネフィリムがいた。その人たちは太古の勇士で、名高い人々であった。」

・イザヤ6:11-13 イザヤの召命
「わたしは言った。「主よ、いつまでなのでしょうか。」主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者もなく、家々には人がいなくなり、地が荒れ果てて荒廃するときまで。ヤーウェが人を遠くに移し、国の中には見捨てられた所が多くなる。それでもなお、そこに十分の一が残るが、これも焼き尽くされる。樫の木やテレビンの木が切り倒されると、切り株が残る。その切り株が聖なる種族である。」

・申命記9:3 主の業
「それ故、今日、あなたの神、主が焼き尽くす火として、あなたの前を進まれることを知りなさい。」

・ヘブライ書12:29 キリストの招き
「実に、わたしたちの神は焼き尽くす火なのです。」

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ユダの民が心奪われていた異教礼拝。それは一体何だったのか。

それはカナン地方に古くから伝わる、豊穣崇拝としての樹木崇拝であろうか。

人々が「慕っていた樫(かし)の木」。テレビンの木(落葉樹の一種)ともいう。

その「樫の木のように強かったアムル人」(アモス2:9)は、古代の巨人ネフィリムの子孫であったという。(民数記13:31-33)

そしてこの巨人ネフィリムもまた、原初の「神の息子ら」と「人の娘たち」の間から生まれた存在であったという。(創世記6:1-4)

この「神の息子ら」と「人の娘たち」を更にさかのぼる時、アダムとエバの姿が目に浮かんでくる。

アダムとエバが、かつて神と共に暮らしていた楽園。
「エデンの園」と、そこにあった「命の木」。

そこで魂に刻み込まれたであろう、幸せの記憶。
「顔と顔を合わせて」(コリント13:12)見つめあっていた至福の記憶。

しかしそれも楽園追放の後は、次第に遠い記憶へと、忘却の彼方へと失われてゆく。

そして時代は下り、今や人々は
「自分で選んだ園」と「慕っていた樫の木」(イザヤ1:29)に心奪われ、
礼拝をささげているという。

「自分が何をしているのか分からない」(ルカ23:34)まま、
そこに真の幸せがあると信じて熱心に礼拝する人々。ユダの民。

しかしそれが導く先は、
永遠の生をもたらす「命の木」ではなく、衰え死すべき「葉のしおれた樫の木」、
川が湧き出す「エデンの園」ではなく、「水のない園」であった。

ここにおいて「命の木」と「エデンの園」の主である神の声が、預言者の口を通して響きわたる。

その声を聞くことができる者は、自らの愚かさを悟り、恥じ入ることであろう。

他方、心かたくなになり、自らの力のみに頼る「強い者」は、園も木も自分で選ばねばすまない。
そして永遠につかむことのできない幻を求めて、永遠にさまよい続ける。

しかし「神は焼き尽くす火」(申命記9:3、ヘブライ12:29)である。

慈悲か、裁きか、永遠にさまよい続けることは許さない。

「強い者は麻のくずに、その業は火花となり、
共に燃え上がって、これを消すものはいない。」(イザヤ1:31)

神の審判は、すべての目に明らかになる。

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