イザヤ書を読む(4)


イザヤ書 第1章 4-9節

ユダの破滅

ああ、災いだ。罪を犯す国、咎の重い民、
悪を行う者の子孫、堕落した者の子どもは。
彼らは、ヤーウェを捨て、
イスラエルの聖なる方を侮り、離れ去った。

なぜ、あなたたちはなおも打たれようとするのか、
反抗に反抗を重ねて。
頭はどこも痛み、心は弱り果てている。

足の裏から頭まで、健全なところはなく、
傷、みみずばれ、そして生傷ばかり。
膿も出してもらえず、包帯もされず、油で和らげられもしない。

あなたたちの国は荒れ果て、町々は火で焼かれる。
畑は、あなたたちの前で外国人が食い荒らし、
滅ぼされた外国人の町のように荒れ果てた。

娘シオンはぶどう畑の小屋のようにとり残された。
きゅうり畑の見張り小屋のように、包囲された町のように。

もし、万軍のヤーウェがわたしたちに
わずかでも生存者を残されなかったなら、
わたしたちはソドムのようになり、
ゴモラと同じようになっていたであろう。

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<本文注より>
・「イスラエルの聖なる方」という表現。聖性の基本的概念は、普通一般のこと、あるいは世俗的なことからの隔絶であり、あらゆる創造されたものに対する神の超越を意味する。イザヤの時代以前は、「聖性」の概念はほとんど、宗教的儀式、神々の礼拝で用いられる物やそれに関与する人々に関連してのみ使われたが、イザヤ書では聖性の倫理的な面が取り上げられる。ヤーウェが聖であるようにイスラエルも聖でなければならない(レビ11:44)。したがって他国の聖でない慣習から隔離されなければならない。

・5-7節で描かれている負傷と荒廃は、外国人、特にアッシリアから被ったものである。蓋然性が高いのは、前701年のアッシリアのセンナケリブ王による攻撃である。本節で「滅ぼされた」と訳した語は、常に、ソドムとゴモラをヤーウェが滅ぼすときにのみ使われているので、「外国人(の町)」は創19:24-29でヤーウェに滅ぼされた町であると理解できる。

・「シオン」は、基本的にエルサレムが建てられている丘のことであるが、エルサレムそのものと同一視される。それゆえ、「シオンの娘」は、エルサレムそのものとその住民を意味している。シオンの娘たちはエルサレムの女性たちのことである。小屋または見張り小屋は、収穫後は捨て置かれる。そのように、エルサレムは、周囲のユダの町や村が紀元前701年に、センナケリブの軍隊によって全部収穫された(つまり奪い取られた)後、それだけが征服されずに取り残された。本節と次節で初めて「残りの者」という概念が出るが、これは後に、エルサレムの破壊の後生き残った者の意味を持つ。

・「万軍のヤーウェ」という表現(サムエル1:3参照)。ヘブライ語では「ヤーウェ・ツェバオス」である。この表現と符合する新約聖書の表現は「万軍の主」である(ローマ9:29、ヤコブ5:4)。「万軍」は、(1)戦場で、また砂漠で宿営から宿営へと契約の櫃に率いられて動くイスラエルの軍隊、(2)隊列を整えた軍隊のように夜空を横切る天(すなわち、神の住み家)の星、(3)神が天と地、すなわち宇宙においてお造りになったすべてのもの、以上のいずれかを指していると考えられる。

<参考聖句>
レビ11:44-45(清くない小さなはうもの)
「わたしはおまえのたちの神、ヤーウェであり、おまえたちは身を聖にし、聖でなければならないからである。わたしは聖であり、おまえたちはすべて地に動くはうものによって、身を汚してはならないからである。わたしはおまえたちの神となるため、おまえたちをエジプトの地から導き上がったヤーウェである。わたしは聖であるから、おまえたちは聖でなければならない。」

<本文注>
・最も不浄なものとみなされている「はうもの」(エゼキエル8:10参照)

エゼキエル8:10(神殿における偶像礼拝)
「入ってみると、そこにはありとあらゆる這(は)うもの、忌むべき獣、イスラエルの家のあらゆる偶像が、周囲の壁という壁一面に刻みつけられていた。」

創世記19:29(ソドムとゴモラの滅亡)
「ヤーウェは硫黄と火をヤーウェの所から―天から―ソドムとゴモラの上に降らせ、これらの町、ならびに全盆地とその町々の全住民、およびその地にはえているものとを、くつがえされた。ロトの妻は夫のうしろの所でふり返ったので、塩の柱になった。アブラハムは朝早く、かれがさきにヤーウェの前に立った所に来て、ソドムとゴモラ、および全盆地のほうを見おろすと、その地の煙がかまどの煙のように立ちのぼっていた。神はその盆地の町々をくつがえされた時、すなわちロトの住んでいた町々をくつがえされた時、アブラハムのことを思い出し、ロトを滅びの中から救い出された。」

<本文注>
・「くつがえす」は地震を暗示している。

サムエル上1:3(シロにおけるエルカナとその家族)
「エルカナは毎年町を出てシロに上り、万軍のヤーウェを礼拝し、いけにえを捧げた。そこでは、エリの二人の息子、ホフニとピネハスが祭司としてヤーウェに仕えていた。」

ローマ9:29(神の怒りとあわれみ)
「また、これより先に、イザヤはこう言っています。「万軍の主がわたしたちに子孫を残さなかったなら、わたしたちはソドムと同じようになり、ゴモラと同じようにされたであろう」」

<本文注>
パウロがこれらを引用した目的は、そこに含まれている「残りのもの」の救いという思想を取り上げ、キリストを信じて受け入れる者が「残りのもの」となり、また、真のイスラエルの「子孫」となるということを主張するためである。

ヤコブ5:4(金持に対する警告)
「ごらんなさい、あなたがたの畑の刈取りをした労務者に未払いになっている賃金が叫んでいます。そして、刈入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳にはいっています。」

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預言者イザヤは語り始める。「ああ、災いだ。罪を犯す国、咎(とが)の重い民・・・」と。

2700年前、イスラエル(ユダ)に向かって語られた言葉であるが、現在の私達にとっても、とても人ごとではない、生々しさを伴って迫ってくる言葉である。

いにしえの災いの預言が、今の私達に共感を呼ぶということは驚くべきことであるが、他方、人間というものの変わらない罪深さを見せつけられるという意味では、悲しむべきことでもあろう。

聖書は過去の事柄を扱いながらも、<いま生きている神>を伝えようとする。

また<いま生きている神>の方からも、聖書の言葉を通して、いま生きている私達の心に働きかけようとされている。

「反抗に反抗を重ねて。頭はどこも痛み、心は弱り果てている。」と預言者は語る。

私達は神を捨て、神から離れ去った。私達の視界に、もはや神はいない。

しかし、そのような私達に対して、神の側(がわ)から目を離すことは片時もない。
神は、私達を忘れることはなく、捨て去ることはなく、常に側(そば)でその眼差しをこちらに向けている。

「反抗に反抗を重ねて。頭はどこも痛み、心は弱り果てている。」

わが子を慈しむ親は、子の苦しむ姿から決して目をそらさない。
その苦しみがたとえ子の当然の報いだとしても。

「足の裏から頭まで、健全なところはなく、
傷、みみずばれ、そして生傷ばかり。
膿も出してもらえず、包帯もされず、油で和らげられもしない。」

何という傷付き具合であろうか。

見守る親は、僅かな苦しみをも見逃さず、寄り添い、共に苦しもうとさえする。

愛する人の苦しみが、また自分の苦しみでもないならば、それは本当に愛なのであろうか。



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