[イヴ・コンガール] わたしは聖霊を信じる(6)

イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。
今回は第一巻第二部「キリスト教の歴史において」の中世教会の部から、トマス・アクィナスに関する記述を中心に紹介したい。

(以下、本書P.127-138「第三章 御父と御子の相互の愛である聖霊」およびP.175-180「第六章 神学者たちの著作における聖霊」より適宜転載)
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・聖霊のこの理解の歴史は、・・・さまざまな偉大な思想家によって彩られている。・・・聖アンセルムス、サン・ヴィクトルのアカルドゥスと聖リカルドゥス、聖ボナベントゥラ、そして聖トマス・アクイナスの名が上げられる。

・トマス・アクイナスは、神学者としての活動の全期間を通して、深く伝承に根差した、御父と御子との間の愛の絆とする聖霊に関する理念を受け入れていた。・・・「相互の愛」という主題は宗教的な人の魂にとって、また詩的な精神にとって重要であり、祈りと詩には類似性があるにせよ、三位に関する論述を知性を用いて書き上げるための決定的な基準とはなりえないとトマスには思われた。

・トマスにとって、神の内にあって能動的であるものは皆、諸位格(ペルソナ)によってなされるものである。自らに対する本性的な認識および愛は、位格(ペルソナ)的な諸主体として実体化されたものとしてのみ実在するものであり、この位格(ペルソナ)的な諸主体はそれらを構成する諸関係において相対するものによってのみ区別されるのである。これらの諸関係は、絶対的な本質である神的な実体の内に確立されているものとして、それ自体として実在するものとなっている。・・・「神における位格(ペルソナ)は、実体の様態による関係を意味するのである」。

・H.F.ドンデーンの解説ならびに結論に賛同することができよう。「アンセルムスの総合のもたらした利点を確かなものとするために、聖トマスは相互の愛を副次的なものとしている。・・・実に『愛する者らの結び目』という愛の比喩は、表象を越えさせない。二人の愛する者が一致するために一つになっているということは、・・・双方が自分に固有な行為をなしているのであり、それは二つの愛、二つの行為となっているのである。両者が一つであるのは、対象においてであり、その対象とは善である・・・すなわち善の共有なのである。・・・したがって、聖霊を御父と御子との友愛、御父と御子の相互の愛として提示することは・・・心引かれる考え方である。しかしながら、この見解は形而上学的な意味で取ることはできないのである。聖霊の位格(ペルソナ)を考えるための確実な類比ではないからである。別の形で説明されねばならない。すなわち、聖霊は自らの善に至らせる愛、神的に知解と愛から発する愛ーーその御言から発する愛である。・・」

・目下考察している時代には、聖霊の賜物にことのほか重要な位置が与えられていた。・・・特に西方教会では、「七」という数が重視されたが、七という数は十全性を意味するよりも、特別の働きを数え上げたものとして取られたのである。七十人訳に従ったヴルガタ訳ラテン語聖書では次のように記されている。「・・・そして、主の霊が彼の上に憩う、知恵と理解の霊、助言と勇気の霊、知識と孝愛の霊。そして主を畏れる霊が彼を満たす」。十二世紀から、聖アウグスティヌスの著作が盛んに読まれるようになったことと結びついて、西方教会のキリスト者は御霊の七つの賜物を熱心に乞い求め、たたえ、それらについて理解するよう探求するようになった。

・1235年頃まで、これら七つの賜物が諸徳に割り当てられることはなかった。・・・この区分を非常に優れたかたちで体系的なものとしたのがトマス・アクイナスであった。・・・1269-70年に書かれた『神学大全』に見いだされるこの神学を簡略に紹介することにしよう。

・トマスは、キリスト者を、被造物がそれによって、彼らの目的を目指して動かされ、かつ行動する運動の枠組みの中に位置づける。ここで彼が問題とするのは、「モトゥス ホミニス アド デウム」、すなわち、神を目指しての人間の歩み、上昇であり、神以外の何物をも目指すものではない。神ただおひとりが元(はじめ)であり、終局目的である。

・まず初めに、神は創造主として、被造物の本性にそれぞれ、真に自分のものとして行動する諸原理を与えられたのである。人間の場合は、神は人間を自由なものとしてお造りになったのである。そのことは、人間は自ら決断すること、「カウザ・スイ」<自らの原因>、自ら実現する者であること、自らの行動、自らの「ハビトゥス」もしくは振舞いによって完成させることだけを意味するのではなく、神が人間を動かすにしても、人間は自らの自由によって働き、自由に行動するということをも意味する。・・・しかしながら、人間を対外的に道徳的に行動させようとする諸動因も存在する。・・・悪魔は示唆によってわれわれの自由に働きかける。つまり誘惑である。神は、われわれが神のもとに行く、あるいは戻るために・・・教育によって、また行動によって人間に働きかけるのである。・・・彼は言う。「外から善へと動かす原理が神である。神は律法によってわれわれを教育し、恩恵によって促す」。

・「恩恵によって」。これは・・・・深遠で確固とした諸々の賜物によって、ということでもある。「恩恵」とは徳であり、賜物である。

・賜物は・・・キリスト者が御霊の鼓吹を把握し、それに従うのに敏感にさせる類いの性向である。それは・・・他者、すなわち、無限に優れ、この上なく自由な方である聖霊によって、諸徳を越え、信仰によって生かされた理性を越え、超自然な賢慮を越えた行為を自分の規範とするよう、恒常的に、イエスの弟子に自分を開かせるのである。・・・これは純粋に理性的な道徳的行為とは遥かに隔たったものである。

・それらの賜物は神学的徳「対神徳すなわち信仰、希望、愛」を越えるものではない。神学的徳というものは、われわれを神ご自身と一つに結ぶものであり、それ以上のものは何一つとしてありえない。賜物は、それを完全に遂行するよう奉仕するものである。しかしながら、厳密に言えば、ただ神おひとりが、自ら介入されることで、これらの徳を遂行するための満ち溢れる力を与えることがおできになるのであり、ただ神おひとりが神の子供の行動を完遂させることがおできになるのである。トマスは好んでパウロの次の言葉を引用している。「・・・神の御霊によって導かれている者は皆、神の子なのです」(ロマ8:14)

・聖化するのは聖霊である。聖化のこの働きにおける聖霊の後をたどるのは全く不可能なことである。それは聖霊の秘密であり、御父の慈しみ深い愛の深遠さにかかわることである。

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(以上、転載おわり)


「神学大全」で知られる中世教会を代表する神学者トマス・アクィナスは聖霊をどのように捉えていたのか。

一方では、神という絶対的実在の中における、三位一体の位格(ペルソナ)の一つとしての聖霊。

他方では、現実の人間世界(そして個々のキリスト者)という相対的実在に対する、聖霊の賜物としての働き。

双方を視野に収めたトマスの知的探究について、イヴ・コンガールの本書を通じて、少し理解を深めることができたように思う。

人間には自由意思があり、善でも悪でも何でも行うことは可能であるが、限界もある。

人間の終局目的である神(創造主)に向かうためには、外からの、そして上からの恩恵がどうしても必要であるという認識を新たにすることができた。



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