恵みの更新

主のご復活おめでとうございます。

2022年も無事、復活徹夜祭に与ることができました。

教会には新受洗者の方もおられ
洗礼の瞬間に立ち会えたことは大きな喜びでした。

洗礼の恵みが
その方の生涯を守り、育み、導かれることを願ってやみません。

また受洗者には、洗礼の約束の更新が行われました。

私自身がカトリックの洗礼を受けたのは
2015年4月4日の復活徹夜祭においてでした。

このブログもその時の洗礼の恵みを記念して始めたものでした。

あれから7年が経ちます。

私生活では色々なことがありましたが
その合間、合間に、
その時の気分にまかせて、まったくの思いつきの、
日本語文としての体裁も無視したような言葉を
このブログに書き留めてきました。

匿名の気楽さに甘えている部分も多々あり、
当ブログを訪れて下さった皆様には
まったく申し訳ないという気持ちです。

そしてSNSが発達・普及したこの時代にあって
当ブログは対話の場としては全くの欠陥品です。

それは一つには
私自身の能力不足でもありますし、
また一つには
語られる事柄そのものの性質として
オンライン文章だけでは誤解を生じやすいため
意識的に避けている、ということもあります。
その点はご容赦頂ければ幸いです。

さて、洗礼の約束の更新の話に戻ります。

今、受洗7年目の自分がここにいます。

受洗しても3年以内で
教会に来なくなる人が多いとも聞きます。

7年というのは長くもなく短くもない期間でしょうか。

もし当ブログに何か意味があるとすれば
「人は洗礼を受けるとどうなるのか」の一つの
事例を提示することにあるのかもしれません。

それを読み手がどう受け取るかは分かりませんが
書き手としては次のように言いたいと思います。

洗礼により恵みの時は始まり、
その恵みの流れは今も変わらず流れ続けている、と。

洗礼とは文字通り水による注ぎ、洗いであり、
洗礼者ヨハネがヨルダン川で行っていた洗礼がその元型ですが
それが「洗い」として成り立つためには、
元の川の水が清らかでなければなりません。

私の信仰生活は
その清らかな流れに身を委ねることから始まり、
そして今も安心して、ゆったりと身を委ねています。

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