補・「可哀想な私」をわざわざ選んでたわ。
この記事↓の補足です。
「可哀想な私」を選ぶとき、他人や周りや環境への不満という形で出てくることも多いのですが、もう一つありましたので補足。
それは、自分を責めるという行為です。
これもとてもわかりやすく、「自分のせいだ」「自分が悪い」と責めるというやり方・考え方で「可哀想な私」であると決めます。
少しヒロイックかもしれないね。
何か自分にとってネガティブなことが起こったときに、
「自分が原因ではないか?」「自分のせいではないか?」「自分が悪いのでは?」
と考えるのは、一種の認知のゆがみだと思います。
これも小さい頃育った環境によって、「自分のせい=自分が頑張ればこの状況を改善できるかも!」という思い込みが作られてしまったのですな。
実際は、自分が頑張ってもどうにもならないことも多い。つまり大抵自分のせいではない。
とすると、自分にとってネガティブなことが起こった、という事実はどうなるのかというと、
それ自体が事実なのではなく、自分が「自分にとってネガティブなこと」と捉えているというだけの話で。
「これは自分にとってネガティブだ」→「ネガティブなことが起こるなんて私は不幸だ、可哀想だ」となっていくわけで。
これと「自分のせいだ」が組み合わさることで、自分を責める→可哀想な私であると決める、となっていくわけです。
ここから抜けるためには、自分の行動や言葉・考えなど全てを認め受け入れるのが大事だと思います。
自己受容ってやつですね。
私の転機はこれ↓だったように思います。
この詩に書いてるような、自分が動くたびに「これでいいんだ」と自分に言ってあげるという行為をリアルでやってたのですけど(気付いたときにだけどね)、これによって自分を批判したり否定したりがかなり軽くなりました。
そして、究極の自己受容は、「自分を責めてもいい」「ヒロイックでもいい」「可哀想な私を選んでもいい」って思うことかもしれない。
どんな自分も認め、受け入れてあげるならそうなります。
別に「可哀想な私」を選ぶことが悪いことじゃないし。
今までそっちを選んできた私もまた愛おしい。
「可哀想な私」を選びたくなるような境遇だったのだから! それだけ頑張ってきたということなのよね。
今の私は「可哀想な私」は選ばないけど、「可哀想な私」を選んできた今までの私のことも認め受け入れてあげたい。
よく頑張ってきたね。もう大丈夫だよ。
もう可哀想な方の選択肢を選ばなくていいんだよ。
ここから先は、あとは心の筋トレのように感じる。
気付いたときに逐一「幸せな私」に戻るということと、何か行動したり言葉を発したりするたびに「これでいいんだ」と言ってあげること、あとは逐一自分を褒めてあげること。
この筋トレを続けていけば大丈夫だと感じる。
これに気付けたのが幸せ。
この話をnoteで文章にまとめられるのも幸せ。
幸せはありがたみにも似ている。ありがたいことですね。
私は今「私の場合はこう」としか言えないのだけど、いずれはより一般化していろんな人に伝えられたらいいなと思います。
出た! 一般化ってワード。
少しとりとめのない文章になってしまいましたが、それだけ幸せを感じられることに浮足立っているのでしょうな。
それはそれでよし!
それもまた自分として認め受け入れてしまうのである😌
ここからは追記。
逐一幸せを選ぶようになり、幸せを選べるようになってから、本当に幸せな出来事が増えてきました。
道端のお花が綺麗とか、毎日出勤できる健康体だとかそういったささやかな幸せから、会社で自費で支払おうと思っていたものを経費から出してもらえたりとかいった現金な幸せまで、なんかもういろいろ!
きみちゃんの講座とオンラインサロンで、小さな幸せ探しを毎日やるということを覚えたのですが、その威力が今まさにいかんなく発揮されております✨
それでは皆様ごきげんよう!
皆様にも幸多からんことを。