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守りたがり

もう大人なんだから
まだ若いじゃない

高校生の時に比べたら、子どもだとは言われなくなった。私はもう大人だ。あと2週間もしたら22歳になる。大学4年生、大学という組織で見ても1番上の学年になって、普通にバイトしてる人とかだったら結構古株になっちゃったりしてるんじゃないか。

年を取ると、そして自分より下に人を抱えるようになると、人は無理に大人になろうとする。学校の部活も、会社もそうだけど、自分が知っていることを誰かに教えるという場面に即したとき、人はちょっとだけえらくなったような気持ちになる。でも本当にそれってえらいんだろうか。ただ、「人より少し知っているだけ」であって、偉いかどうかは周りが決めることなんじゃないかなあと、事あるごとに思う。

「守る」、なにを?

最近やたらと、「守る」という言葉を聞くようになった。コンプライアンスを守るとか、若者を守るとか。一個前にルールに関するnoteを書いたけれど、ルールも誰かに守られて初めてルールとして成り立つ。そういういろんな「守る」が、私たちが生きていく中で存在する。

冒頭で書いた通り、循環型の組織に所属していると一定のペースで新人と呼ばれる人たちが入ってきて、その人たちが入って来るたびに前にいた人はひとつ上の「代」になる。いわゆる「センパイ」ってやつ。

センパイになると、世界が広がるし、自分でできることも増えるし、何より形はいろいろあれど多くの場合自分の下に自分が何かを教え、導かなきゃいけない人たちが現れる。そうなった時多くの人は、組織を「守る」ために、その新しく入ってきた人たちを「守らなければいけない」という義務感に襲われると思う。人を守ることは、組織を守ることだから。

ただ気が付かないうちに守るって言葉だけが先行し、それが正しいものとして、次へ次へと受け継がれていく。

でも別に間違ってはいなくて、ある程度の型にはめた「守り方」をしないと、組織も壊れるし組織の力になる人間も育たない。これがきっと、ビジネス的な「守る」なんだろう。

でも本当に守らなければいけないものってなんなんだろうか。そして、本当の意味での「守る」ってなんなんだろう。


「守る」フリした現状維持

私は正直あんまり守らなきゃいけないものってないんじゃないかなあと思う。人道的に考えて沿わなきゃいけないことはあっても、守るって言葉に含まれた責任は、そんなに簡単に誰でも負えるものじゃないんじゃないか。

例えば、夫婦仲最悪な夫婦が、夫婦一緒にいることによってお互いの精神を病んで子どもの前でもしんどい顔を見せずがんばって幸せな家庭を演じているシチュエーションがあるとする。きっとこの夫婦は、「子供のため」にそうしている。子供は、親に幸せでいてもらいたいと思いながら無理して頑張る親と生活し、ただ親だろうと人なのでその無理を隠すことができない時もある。その度に子供たちは不安になる。でも親は言う「子供の幸せを守るために私たちは離婚しない」。

別に無しではない。でもその守るって、「子供のため」を謳ったエゴなんじゃないのか。私は子供がいないからそんなに知ったように否定はできないが、それでももし私が子供だったら、両親が離婚してそれぞれが幸せになれるんだったらむしろ離婚を望むと思う。

私とは違って、「どんな状態でも親は2人揃っているべき」と言う考え方の人がいでもいいと思う。というか、そういう見方をする人がいるから別れないっていうのもさっきの例であげた夫婦が離婚しない理由の1つとして確実に存在すると思う。

ただ結局ここで「守る」にフォーカスしてみた時、本当に守られてるのって誰の幸せでもなく、ただの現状でしかないんじゃないか。

しんどい思いをする人やことをひた隠しにしながら守られてるものは、本当に守らなければいけないものなのだろうか。

「他人を守る」ってそんな甘くない

結構な極論を書いたが、それでもこんな話どこにでもあるんじゃないかな。先述した例は、親子のことだから、そこには責任も経済的な理由も大きく加わってくる。だからこそ、家族内における守り方というものに正解はない。

ただ冒頭で挙げた通り、私たちが学年・役職・年齢が上がるごとに背負わなきゃいけなくなる謎の「守る」理論。仮に守るという概念が存在するのであれば、「守れなかった」という言葉が出てきてもおかしくない。

じゃあこの「守れなかった」時、私たちはどうすればいいのだろうか。

かつて大好きな人が自殺した時、漠然と「守れなかった」という感情に襲われた。でもよく考えてみて、私が勝手に守れなかったと悲しむことは、「守れなかった自分」に酔うためのエゴでしかない。ただ、大事にしていなかった、と思ってしまう部分は少なからずあった。大事にしてあげられなかった。私を襲ったのは、その感情だった。

多くの人が口にする、「守りたい」はわかる。
でも、「他人を守らなければいけない」という義務は誰かが誰かに押し付けられるほど、そんなに簡単に扱えるものではないのだ。ましてや経済力も社会的地位も持たないような人間が、誰かのことを守れ、守らなかった、捨てたなどと大口を叩いて批判できるなんて、じゃあどれだけの人が本来の意味での「守る」を成し遂げているのか。人を守るって、そんな簡単なことじゃない。簡単じゃないからこそ、その言葉で人を批判することの重さが問われる。

批判すること、否定すること、現状を維持することは簡単だ。

自分の大切なものを守るために守りたいものを傷つけられる人間がいることに、なぜ気が付かない。

守るんだったら全部背負って本気で守れ

守りたいもの、はきっと多くの人が持っているはずだ。それは人かもしれないし、宝物かもしれないし、地位や名誉みたいな目に見えないものかもしれない。

本当に自分の何かを守りたいと思うのであれば、覚悟をしなければいけない。失った時の責任も、それを守れなかった時の悲しみも、全てを受け入れ、腹を括らなきゃいけない。そして絶対に、その守りたいものを守れなかった時他人を責めることがあってはいけない。

誰かの守りたいは、強いられるべきでもなければ統制されるべきでもない、「その人が大事にしたいもの」だから。

そしていつも忘れないでほしい。

守るための方法は、絶対にひとつじゃない。

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