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「一瞬待ってて」は何分? l エッセイ

「一瞬」の相対性理論

こないだ女の子に「一瞬待ってて」と言われた。女の子が戻ってきたのは10分後で、私はその子の一瞬は「10分」だと知った。ちなみに私の一瞬は職場では30秒、プライベートでは2〜3分だ。

とあるドラマで、一瞬は人によって異なるという場面を観てから、少し意識して生活をすると今回のように一瞬のまちまちさを知った。ただ「一瞬」という言葉は曖昧だしそういうこともあるだろう、と感じていたら、「5分待ってて」も人によって違うと気付いた。

「5分」って何分?

気づいたのは先週のよく晴れた日曜日の朝だ。一緒に過ごした女の子が「朝ご飯作るよ」と言ったので、「じゃあ僕はコーヒーを淹れるよ」と答えた直後だった。

淹れたてを飲みたいらしい女の子に、「豆を挽いてドリップするから5分でできると思う。だから今から作ってくれる朝食が出来上がる頃に淹れ始めようかな」と伝えると、「5分でできるから今から淹れてもらってもいい?」と言われた。

私は5分でコーヒーを淹れた。彼女の朝食ができたのは20分後だった。コーヒーまぁまぁ冷めちゃった。

いや、でも、「5分待ってて」が人によって異なること自体は以前からうすうす気づいていた気もする。それは待ち合わせに限定された、もっとスポットなものだと思っていたので、案外ひろかったらしいとわかっていなかったのだ。

「一瞬」も「5分」も人によって違う。その違いに一瞬は驚くけれど、日常的にそこここで起きているのだろうな、などという考えが頭の隅に住み着き、いつのまにか時間感覚の相対的な差に少し鋭敏になっていたらしい。突然、光の速さで閃きがあった。

1日の長さの相対性

「あれ、1日の長さも人によって違うのでは?」

12時間も寝たからなんだか1日があっという間に感じる、ということではない。1日が24時間なのは変わらないけれど、1時間のうち自覚している意識の量が違えば、もしくはあるタスクの処理にかかる時間が違えば、1日の体感的な長さは相対的に変わるのではないのかな。

それは(私から見ると)おっとりしている友人と接しているときにより顕著に感じる。以前にひょんなことからその友人と3ヶ月一緒に生活したことがあった。

友人はわたしが10分で読み終えた本を2時間かけて読み、私が1時間に100個のことをすると友人は10個のことをした。色々とおっとりしているように見えたので、「今何を考えているの?」と聞くと、「何も考えていない、ぼーっとしていた」と答えることが多かった。

たぶん、その友人と私では1時間に自覚する意識の量が大きく違ったし、タスクの処理にかかる時間もずいぶんと違った。私は友人と同じ24時間を共有しながら、体感的には3ヶ月くらい経ったような気になった。

24時間で自覚する意識の量が多く、処理し終えるタスクが多い側からみると、そうではない相手の時間は相対的にゆっくり流れているように見える。

なんだかアインシュタインの特殊相対性理論を思い出させる。光速で移動している人の時間は、立ち止まっている観測者からすると時間がゆっくり流れているように見える。もちろん、日常生活でそこまでの極端な違いは生じないけれど、主観的な時間感覚にも似たような「相対性」があるのかもしれない。

どちらが優れているわけではないし、私が100のことをしている間に10000できる人もいるのだろう。私が1時間で自覚できる意識の量を遥かに凌駕する人も山程いるのだろう。

時間感覚の違いとコミュニケーション

ただ単純に、人によって(相対的に)1日の長さが違うと知らないと、コミュニケーションの歪みが生じやすいよな、とは思う。「一瞬」「5分」「1日」の長さがどのくらい一緒か。それがいわゆる「リズムが合う」ということなのかもしれない。

ーー今回の話に限らず、コミュニケーションを円滑にするためには、まずは違いがあると知ることがすべての一歩目なのだと思う。そこから先、その異なる相手と向き合うのかすれ違うのか適度な距離を取るのか決めれば良い。

などと、高説っぽくのたまったが、正直なところ私は相対性理論のことをほぼ全くわかっておらぬ。

今回のエッセイは私のあほうさを全面に露呈した内容になっているが、なんだか賢そうと騙されてくれる人が一人でもいることを願う。切に。

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